大学1年の時、
専攻の授業担当にそれはそれは恐い教授がいました。
今思えば、
当時はまだ大学と言えども定年は普通に60歳だっただろうから、
もしやあの時「ものすごいおじいさん」に見えたその教授は、
今の私とあまり変わらないくらいのお年だったかもしれない。
(後から先生のプロフィールを調べて計算したら、モロ今の私の年かも( ̄▽ ̄;))
言語学の権威で、
私たち新入生が教わっていたのは、
その科の学生としては避けて通れない「概論」(入門)のような授業。
そしてそのH先生の授業中の口癖は、
レスポンス!!
小さな教室での、科を半分に分けた、ひとクラス35人くらいの少人数授業でしたが、
先生の言っていることは難し過ぎ、
脈絡も感じられなくて、
皆何が何のことだかさっぱりわからない。
(後から考えれば、それは私たち学生があまりにも未熟で、先生の思考のレベルに付いて行っていなかったから。)
地方から出て来てまだ大学生活の右も左もわからないような学生も多かったから、
90分の授業は、緊張でコキンコキンの空気の中で行われる「苦行」のよう。
それで、先生が何を言っても、皆黙って聞いているばかり。
いつ指名されて質問攻めに遭うかとびくびくしながら座っているので、
その授業中に自分から何か「言葉を発する」余裕のある人など誰もいない。
あるクラスメートは、授業中に突然指名されて自分の名前について尋ねられ、
親から聞き知っている命名の由来を答えたところ、
先生は、
いや、それはおかしい。
それは中国の歴史書のこれこれから来ているはずで、
そのような意味ではない。
と、親からもらった名前からして断罪されていた( ̄▽ ̄;)
それくらい先生が、
英語言語学だけでなくあらゆる方面の学問に造詣が深かった、
ということです。
(と、後からわかったf^_^;)
そんな具合で、
ビクビク授業を受けていた私たちに、
先生が突然大声で発するのが、
レスポンスッ!!
(「反応」!)
先生のおっしゃるに、
君たちは、目の前で人が君たちに向かって喋りかけているのに、
それを聞いて何も思わないのか?
ああそうか、と思えば、「あ、そうだったのかー!」と思ってそれが表情に表れたり、
知らなかったことを知ったら「へぇ〜」と感心して、
それが思わず口をついて出るとか、
何か心に動きがあるのが人間というものだろう。
言葉というもの、コミュニケーションというのはそういうものだ。
…先生が伝えたかったのは、もちろんこの最後の部分であるわけで、
語学生だった私たちはもちろんそれが大事だとはわかるものの、
先生が言う通りに、その時思ったことを素直に表せる勇気のある者などなかなかいなかった。
けれどそうこうするうち、
私たちもある程度「処世術」を見出して、
皆で実行するようになって来ました。
名前の由来までイジられた先のMちゃんのあたりから(開き直ったのか⁉︎)、
先生が何か言うたび、
へぇ〜〜、そうだったのか〜〜!
初めて知りましたぁ〜(゚∀゚)
などとわざとらしく声に出す人が出て来て、
他の皆も、わざとらしいことを重々知りながらもそれに唱和。
先生が何か言ったりするたび、
皆出来るだけ大きくうなづいて「反応」を示したりするように。
普段まさに「苦虫を噛み潰したみたいに」厳しい表情で前に立っている教授も、
その表情を変えはしないものの、
その裏側でチラッと、
「しょうがないなぁ(⌒-⌒; )」
と1パーセントくらいの笑いを堪えているのが、
学生のこちら側にもわかるようになって来ました(^◇^;)
それでも授業内容に感しては、
他の先生の授業と比べても、
私たちにはチンプンカンプン。
そうこうしているうち、
あっという間に1年次が終わりました。
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私が、遅ればせながらその先生の凄さに気づいたのは3年生くらいになってから。
私は一応、
物心ついた頃からの
「言葉とは何ぞや」
などという壮大な疑問を抱えてわざわざその大学に行ったマジメな学生だったのでw、
学年が上がり、ある時ふと1年次のH先生の授業のノートを取り出して見直していた時のこと。
もしやこれは、、、
長年の私の疑問を解く鍵のようなものではないのか?
いかんせん、
ノートを取った当時はその授業の内容が本当にわかっていなかったので、
脈絡のない部分などがたくさんあります。
でもそこに断片的に書かれていることは、
どれもすべて私のモヤモヤを晴らすパズルのピースのよう!
私はなんて馬鹿だったんだろうかと、
自分を恥じたことは言うまでもありません。
(まあ結局、未熟なこと、そこから勉強してモノを知るってことはそういうことなのですねf^_^;)
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3年の終わり、
卒論を書くゼミを選ぶことになった、とある冬の午後。
寒くて暗い研究棟に私が訪ねたのは、
H先生ではなく、当時まだ30代だった助教授S先生でした。
(H先生は大御所すぎて、卒論ゼミなど持っていらっしゃらなかったから。)
このS先生がまた、
2年次くらいに授業を受けた時、
やってる内容がチンプンカンプンだった人。
最寄駅からは広大な墓場を横切るのが近道だった通学路。
友だちとおしゃべりしながら大学に向かっていたある朝、
ふと気づくとそのS先生が、
ジーンズに使い込まれた革製リュックという、学生と変わらないラフな出立ちで、
私たちのすぐ後ろを黙々と歩いているのに気がつきました。
そしてその時私たちが喋っていた内容というのが、
ねぇS先生の授業って、
何がやりたいのかさっぱりわからないよね
という「ほぼ悪口」。
(距離から言って、絶対聞こえてる( ̄▽ ̄;))
…でも、お分かりのように、
この2年の時にはまだ私たちにチンプンカンプンだったこの先生の授業も、
ある時ふと気づいてみれば、
自分たちがわかっていなかった
だけだったということ。
しかもやがてそれが、
自分の求めることそのもの
なのではないかと気づいた時の衝撃。
とにかく、
卒論を書くためにS先生に相談に行った時、
思い詰めていた私はさぞ暗い顔をしていたことだろうと思います。
けれどお話ししている中で私が、
1年の時、H先生の授業は何をやっているのかさっぱりわからなかったのに、
後からノートを見直すと、全て自分の疑問を晴らしてくれるようなものでびっくりしました
と言ったところ、
S先生は平然と、
そうでしょう。
とおっしゃる( ̄▽ ̄;)
レスポンス!の恐いH先生は言語学の権威、
片やS先生はアメリカ文学やポップカルチャー論というような一見全く違う分野の研究者だったのに、
お二人の先生の研究の元の元はたぶん同じ、
私が求めたものもどちらとも分野を区切るようなものではないはずで…
…と、まだその時点では本当に漠然としていたものの、
とにかく私は無事S先生の元で卒論を書くに至りました。
(そのつい1年ほど前、墓場の道で悪口言っていたのが私だったことに、先生が気づいてないのを祈りながら過ごした4年次(^◇^;))
S先生はS先生で、
結局私はこのためにその大学に行ったのだ
と思える、私の生涯の師です。
私たちが卒業して間もなく、
ご自分の出身大学に帰られ、
そこの「全学一斉の英語授業改革」をされました。
H先生の方は、
ご退官後、「琉球方言」の研究のために沖縄に移られ、そこでも名誉教授となられたとか。
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昨日の最後の授業は、
これまでの私の授業の信念みたいなものが揺るがされ、本当に消耗するものでした。
まだ完成させてないテストも残っているというのに、
とりあえずここまでのことを整理して考えるためにも、
まず書いておくべきことは、
私にとってはなぜかH先生の
レスポンス!
のことでしたf^_^;
授業についてはまた整理がついてから。
長くなりましたm(_ _)m