つれづれな日々のつぶやき♪

ドラマや映画、展覧会や写真展の感想をぽつぽつと
日々の暮らしの中でふと感じたことなども

“恋する”時間 最終回テーマ 「恋愛の理想的な終着点」

2013-03-22 | 言葉/エッセイ

FANCLの会報誌ESPOIRに載っている角田光代さんのエッセイ、“恋する”時間 が最終回となりました。テーマは「恋愛の理想的な終着点」。
ESPOIR 4月号はこちらです。 → 


>子どものころは、単純に、恋愛の理想的な終着地点は結婚なのだと思っていた。だぶん、子ども向けに書かれた多くの物語のせいでそんなふうに思いこんだのではないか。恋に落ちた女の人と男の人は、最後には「しあわせに暮らしました」、となる。が、成長するにつれて、事態はそんなにシンプルではないぞ、と気がついてくる。

うんうん、本当にそのとおり。認識しているかどうかは別にして、こんなふうに物語や漫画、アニメ、ドラマから受ける影響は、とても大きいのだと思うのですよ。実際に。
私は夢見る子どもであったのだけれど、実際的でもあり、「しあわせに暮らしました」という物語のくだりには懐疑的でして、そんな単純なわけはないだろうと思ってましたね~ 自分の両親や周囲の大人たちを見ていて、「結婚」という現実はそう甘くはないものだと思っておりましたので(笑


>そのうち、恋愛と結婚はべつもののような気がしてくる。恋愛の終着点が結婚であるはずがないように思えてくる。

終着点ではないですよね。。むしろ出発点。「しあわせに暮らしました。めでたし、めでたし」で何十年も暮らしていけるはずもなし。


>今、わかるのは、恋愛と結婚の違いは、旅と日常のそれによく似ている。

「恋愛」は非日常、「結婚」は日常。「恋愛」はお互いにいいとこ取り、「結婚」はお互いをさらけ出す。「恋愛」は嫌になったらすぐに手放すことができる、「結婚」も手放すことができるけれどそう簡単にはいかないもの。しがらみ多し。


>かたちを変えることも含め、すべての恋愛は結局は終わる。そうして、それが自分にとってどのような恋愛であって、どのようなかたちで終わったのかを知っているのは、自分(と相手)しかいない。恋愛の理想的な終わり方とは、つまり、外からの評価でなく、自分で見極めるしかない。あの人に会ってよかった、ともに時間を過ごせてよかったと思える関係であれば、それはやっぱり、どんな終わり方をしたにせよ、いい恋愛だったということになるんだろう。

始まりがあれば終わりは必ずあるもの。それがどんなかたちであろうとも。どうであったかは、結局、自分自身が心の中で決めること。
多分、そういうことなのかなぁ。。?



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『くらしのたね』vol.28 古い布の復活

2012-11-21 | 言葉/エッセイ

イラストレーターのこぐれひでこさんのエッセイ  『くらしのたね』vol.28 古い布の復活  を読みました。tecolo という、手作りのナチュラル素材などを扱っているネットショップのメルマガにリンクがあるのです。

そこから一部を抜粋して。


晴れた日の午後、暖かな冬の日差しに包まれて、ミシンをカタカタと踏む私。いい感じじゃありませんか?頭に描いただけで自己陶酔してしまいそう。
何でも好きだと思ったものは許される限り手に入れておいた方がいい。このたび私はしみじみそう思ったのである。



このエッセイを読んで、自分の「好き」を大切に、ものとの出会いも大切にしていきたいなぁ。。と、改めて思ったのでした。
人も、ものも、縁ってあるのだと思うのです。しみじみ。
出会いたいと必死になっているときに限って出会わない。意識から薄らいだ頃に向こうのほうから、ふっとやってきたりする。
不思議だねぇ。。

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『くらしのたね』vol.25 大人だって!

2012-10-27 | 言葉/エッセイ

イラストレーターのこぐれひでこさんのエッセイ、『くらしのたね』vol.25 大人だって! を読みました。tecolo という、手作りのナチュラル素材などを扱っているネットショップのメルマガにリンクがあるのです。

そこから一部を抜粋して。


少女時代を忘れない人と女盛りを忘れない人、女性を大きく分けるとその2つのタイプがあって、私は前者なのかもしれない。
少女時代は大人になってからより楽しかった、と言っているわけではありません。楽しかった度合いは大人になってからの方が上だったような気がするのですが……でもなぜか、子供の頃好きだったモノに対する愛情のようなものは残っています。
私だけじゃなく、そんな人は多分たくさんいるだろうと思うのですが…….どうなんでしょ? 


そうだよねぇ。。と、ひとりうなずいてみたりして 大人だって!いいじゃないか。誰に迷惑をかけるわけでなし、マナー違反でもなんでもないんだし。よいよ♪

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“恋する”時間 第八回テーマ 「恋に似ている」

2012-10-22 | 言葉/エッセイ

FANCLから毎月、ESPOIRという雑誌が送られてきます。この中に角田光代さんが連載エッセイを書いていらして、これが毎回よいのです。読みながら「ふむふむ、そうだよねぇ。。」などとひとりで頷いていたりして。
今回のテーマは、「恋にている」です。以下、一部を抜粋。


 二十代のころ、年をとるのはいやだなと漠然と思っていて、その理由は、感動しなくなるだろうから、というものだった。

(中略)

 そして三十代半ばのころ、私はおそれていた事態に陥った。つまり、おっさん化したのである。何か新しい音楽を聴きたくても、以前のように心震えず、昔のCDばかり聴いてしまう。映画を見にいく時間がなく、無理に時間をつくっても見にいきたい映画がない。新しい何かをはじめたいという気持ちもない。じつはこのとき、仕事が本当に忙しかった。まったく余裕がなかったのである。余裕がないと、外への関心がどんどん減っていくのだということも、忙しすぎて気づかなかった。一日の、仕事と雑事と家事をこなすのが精一杯だった。それを「充実」というのだと勘違いしていた。

そんな日々を変えたのが、一枚のCDだった。友だちがあるとき、「これきっと好きだと思う」と、私の知らないバンドのCDを貸してくれたのだ。あまり期待せずに聴いてみて、びっくりした。二十代のときとおんなじように心が震えたのだ。そのことに私は救われた。もう三十代も後半だけれど、まだこうして感動できる。感動できる、できないは、年齢じゃない、その人のありようが決めるのだ。

(中略)

二十代と違うことが唯一あって、自分の好みがはっきりわかる、ということ。新しいものでも、好きか嫌いか、なんとなくわかるのだ。だから好きなものにしか反応せず、まことに効率がよい。効率と恋って矛盾する何かだと思うけれど、人以外のあれやこれやに恋するぶんには、相反しないらしい。



うんうん、とてもよくわかります。忙しすぎると心がささくれて、枯れてくるんですよね。でも、あまりに忙しすぎてそれすらわからなくなっていて。。
どんどんいろんなことに無関心になっていって、日々こなさなればならないことに追われていく。それがさらに拍車をかけていくわけで。
エンドレス。。悪循環。断ち切るには、少しの余裕と一歩を踏み出す勇気と気力、かな?

いくつになっても小さなことでいいから、感動できる心の余裕と柔軟さをもっていたいな♪

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“恋する”時間 第一回「恋か、それに似た何か」

2012-03-30 | 言葉/エッセイ

FANCLから毎月送られてくる、"ESPOIR"という小冊子のようなものがあるんですね。
今月から角田光代さんのエッセイ“恋する”時間が始まりました。
そのエッセイがとても共感できましたので、一部を抜粋してみたいと思います。


゜・*:.。..。.:*・゜゜・*:.。..。.:*・゜ ゜・*:.。..。.:*・゜゜・*:.。..。.:*・゜ ゜・*:.。..。.:*・゜゜・*:.。..。.:*・゜ ゜・*:.。..。.:*・゜゜・*:.。..。.:*・゜ ゜・

>女性は何歳になっても恋をしているべきだと、おもに女性向け雑誌で見ることがある。こんなふうにいわれるようになったのは昨今のことで、私の母親世代が聞けばまったく意味不明であろう。三十代も半ばだったころは、そういう言葉を見るにつけ、そうだそうだ、恋をすべきだ、と私は思っていたけれど、四十代も半ばにさしかかってみると、疑問が浮かぶ。
 はて、それなら私たちはいくつまで恋をしていけたらいいのだ?

年齢を重ねたからといって、苦しみだけ免除された恋、なんて都合のいいものができるはずもない。四十代になっても、五十代になっても、はたまた八十代になっても、だれかに恋しては悶々としなくてはならないのだろうか。
 と、真剣に考えて、ようやく気づく。恋じゃなくてもいいのである。
 何歳になっても恋をしているべきだというのはつまり、枯れるな、というようなことである。加齢していくとどんどん「まっ、いっか」が増える。それはそれで楽なのだが、気がつけば、化粧も「まっ。いっか」、お洒落も「まっ、いっか」、何かはじめようかと思っても「まっ、いっか」で終わらせてしまうこともある。かつては刺激された好奇心や、興味や、わくわくする感じが、どんどん枯れてゆく。そうするとどうなるかというと、たぶん、表情やたたずまいが、どんよりするのだと思う。どんよりしているよりは、生き生きしていたほうがだんぜんいいじゃないか、という意味合いでの、「いくつになっても」なのだろう。

 たとえその終わり方が苦しくとも、かっこわるくとも、恋は確実に人を成長させる。でも、もはや恋による成長は私には不要だと思っている。必要なのは、恋に似た何かだ。
 きれいであるということが、服装や髪型や顔立ちといった、外見ばかりを意味するのではないと、年齢を重ねてから知った。内面の美しさというものは、善意や無垢さではなくて、外に向かって開かれていることを意味するらしいことも、だんだんわかってきた。意識が外にむいていれば、人を思いやることができるし、自我を押し通すこともない。そうしたものを失わず保ち続けるには、自分にとって何が必要か、知ることが先決なのだろう。恋に変わって自分をよろこばせ、ときに苦しめ、つねに外を向かせてくれる何か。私はいくつになっても〇〇をしているべきだ、と自分に向かて言い放てる何か。


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素敵な文章だなぁ。。 私もそうありたいものです。

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