私たち人間が、水の上を歩くことができると信じますか。
むりですよね。
水の上を歩ければ便利ですけれど、橋が架かっていて、その上を歩く方が
より確実であるのは、だれでも認めるところでしょう。
必要もなく危ないことをするのを、冒険主義と言いましたっけ。
でも、これは、冒険主義のお話ではありません。
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それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に行かせ、
その間に、群衆を帰してしまわれた。
群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。
夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、
舟は、陸からもう何メートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに来られた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、
「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、
恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。おそれることはない」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、
水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは、「来なさい」と言われた。そこで、
ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫びだし、「主よ。助けて下さい」と言った。
そこで、イエスはすぐ手をのばして、彼を掴んで言われた。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
(新約聖書・マタイの福音書14章22節~31節)
ペテロはイエスに、「ここへ来いと命じて下さい」とお願いしたのです。
イエスは、「来なさい」と言ってくださったのです。
水の上に降り立ってペテロは、イエスの方へ行こうと歩き出したのです。
ところが、風が吹き波が立つのを観て恐れたのです。とたんに、
水のなかに沈みそうになりました。
すぐに、イエスが手を差し伸べて下さって、態勢を立て直すのですが、
イエスにしかられてしまうのです。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
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私たちは、すべて自分の五感や理性で了解できる範囲で行動したいのです。
たとえ人命救助でも、とつぜん冷たい水のなかに飛び込むのはなかなかできないものです。
ただ、五感や理性だけで了解できる行動は、案外限られていると思われませんか。
どうしても理性で了解できないことが、後から後から生まれます。
そとから強制されたことだけではなく、
受験、留学、就職、転職、結婚、離婚、投資・・・、冒険は続きます。
自分自身の内側からも、
アルコールや、バカ騒ぎや、食べ漁り、買い物中毒、ゲーム中毒・・・・。
人は、水を上を歩くもの?!
挑戦も、冒険も、馬鹿な行為も、避けては通れない!!
いいえ。自分で自分を治められないだけ。
だったら、ペテロのように、「ここへ来いとお命じになってください」と、
神様に祈ってください。
風を見て怖くなり、沈みそうになるときも、「助けて下さい」と神様を見上げて下さい。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と、
叱られるかもしれませんが、
そのとき、神の力を体験するのです。
神様なら、何でもおできになります。
少なくても、「聖書の神」は、全知全能のお方なので、なんでもできるのです。
天地をお造りになり、万物をお造りになってそれぞれの場所におかれた創造主には、
不可能はありません。
イエス・キリストは、創造主が肉体を取られて世に来られた方ですから、
水の上を歩くことなど、簡単なのです。