資源ごみを出しに行ったら、普通のトラックと、市のごみ収集車がほとんど並んでやってきました。つい持っていた紙ごみの束と、古着の袋を差し出しました。紙ごみだけ積んでさっさと発車してしまいました。すぐに、青い色の市の収集車がきましたが、紙ごみはあらかたなくなっていました。
これが、先日テレビで見た「ゴミ泥棒」だと気がつきました。集積場に出されているごみを持ち去るのは「法律違反」であるとのことですが、それが今、横行しているというのです。資源ごみが高く売れるからだそうです。
ゴミが売れても売れなくても、集積場に出されたごみを持って行くのは、「窃盗」だと随分前に聞いていました。
これは難しい問題ですね。ゴミなのだから、だれであれ持って行って再利用するのは、よいことのように見えるのです。でも、一定の収集基準を守って市から委託を受けている業者がいるなら、認可を得る手間を省いててっとり早くトラックを横付けして集めて回る業者は違法となるのはしぜんですね。捨てる側でも、「合法的に」ごみを持って行ってもらいたいのです。
同時に、このような競争は、なんだか切ない気がするのです。これは金メダルの取り合いではありません。新しいゲームを買うための、順番取りのたたかいでもありません。
私の若いころは、コーラの瓶が売れるというので、集めて回る子供や、集積場で拾った本を古本屋で売る学生がいたものです。
道端でゴムひもだけを売るおじさんとか、小さな手品を見せて小銭を集める人とか。
ヤシの寅さんみたいなバナナのたたき売りも楽しかった。
どのようなあきないに、行政の「認可」が必要だったのか、
子どもの私にはまるでわからなかったけれど、
でも、小さな仕事、世の中の隙間をやっと生きるだけの仕事でも、工夫と機転次第で、自立して生きる余地があったような気がします。
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旧約聖書のおきての中には、「貧しいもののために落穂ひろいをさせる」規定がありました。
イスラエルの民は全員、神様から嗣業の地(相続地)を分け与えられたのですが、はじめの公平な分配も時がたつと必ず崩れてきて貧富の差が出てきます。
何らの理由で土地を手放してしまった貧しいものには、
大麦と小麦の収穫時に、自由に畑に入らせて、「落穂を拾ってもよい」というのです。
畑の所有者は、落ちた落穂を集めてはならず、また畑を四隅きっちり刈ってはいけなかったのです。
ぶどうなどの果物や生り物も収穫時に、青いものはそのままにしておかなければなりませんでした。
貧しいものが後から採れるようにと配慮です。
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旧約聖書のルツ記は、落穂ひろいが重要な意味を持つ物語です。
貧しいものに、復活の機会を与える「愛の制度」について書かれています。

電子書籍・「ルツ」を紹介させてください。
聖書のメッセージのエッセンス、
落穂ひろいをしなければ生きることのできない二人の未亡人が
一所懸命落穂ひろいしながら、人生を新たにする話です。
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