重度障害者のお世話をしていたころです。
ある時、保育士志望という若い男性がアルバイトで入ってきました。
どこかで資格を取っていて、養護職員になる抱負をもっているようでした。
その男性は、重度知的障害の男の子の担当になりました。
小学生だけれど、排泄がわからない、言葉もない、歩行も思うに任せない子どもです。
紙パンツをつけていて、排泄があったとわかるときにトイレに連れて行って
パンツを取り替えてあげるのです。
担当の子をトイレに連れて行って戻ってきたとき、彼の顔は真っ青でした。
気分が悪いので、少し休みたいと、担当を女性職員と代わりました。
パンツの中いっぱいの排せつ物を見て、気分が悪くなったのです。
一時間ほどして休憩室から出てきた彼は、怒りに震えて言いました。
「あんなに重度の子は、もっと別の施設に入れるべきですよ」
彼は、一時間も残して早退し、翌日から、来ませんでした。
「もっと別の施設」・・・できれば、自分がかかわらなくてよいところへ、やってほしいと平気でいう
そのエゴイズムに、彼は、全然気がついていないのです。
その後、彼がどのような施設で仕事をしているのか知りません。
重度の障害者のお世話は、生半可な覚悟ではできないのだと知ってくれたでしょうか。
替わる必要があるなら、介護者が仕事場を替わるしかないのです。
重度の障害者は、自分を変えることはできないのです。ほかの人と替わることもできません。
★★
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」 (ヨハネの福音書9章1~2節)
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。
だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
(同3~5節)
ある人が障害を持って生まれるのは、彼の親の責任でもなければ本人の責任でもないと、
キリストは断言しています。
それは、健常者として生まれたのもまた、親や本人が誇るべきことではないのを意味しています。
そのことに気がつくとき、私たちの慈善や善い業が生きてくるのではないでしょうか。
汚物を人に取り換えてもらわなければならない障害を持って生れた人は、
どこか遠くの星の人ではありません。
「もっとほかの施設へやれ」と思う心と、
「安楽死させろ」といってはばからない心は、まさに隣り合わせです。