重複障害者という言葉を初めて耳にする方も多いと思います。
重度の障害を持っている人の多くが、障害を二つ以上もっているのです。
体が不自由なのに、心臓にも病気があるとか、てんかんがある。
脳のどこかに障害がある。目や耳も不自由。
私たちは、ちょっと風邪をひいて熱があっても、ほかの人と対等には行動できません。
指一本傷ついても数時間から、何日も気分が悪くなることがあります。
体が思うように動かず、目が不自由で、耳も不自由で、慢性的な病気をかかえていたら、
ほとんど自立して生活することは困難です。
生まれたときから、薬を飲まないでは生命を維持できず、
大きな手術で体を作り直さなければいけないとしたら、
あらゆる面で、健常者と差がでてきてしまいます。
まして、すべての司令塔である脳に障害をもっていると、環境に適応すること自体難しいのです。
様々な障害がなぜ起こるのかは、ほんとうにはわかっていないでしょう。
仮に、その原因を特定できるようになっても、それがなぜ、Aの身の上に起き、なぜ、Bではなかったのか、
答えることができるでしょうか。
「本人が悪いのですか。それとも両親が悪いのですか」
(新約聖書・ヨハネの福音書9章2節)と問うことは簡単ですが、
そんな問いをする「私」や「あなた」が、
重い障害者として生まれなかったという理由はないのです。
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私たちが障害者を援助をしなければならない理由は、
障害を持って生まれる可能性は、だれにもあったからでしょう。
私たちが生きている世は、神の恵みが、ある意味遮断されている「罪の世」ですから、
すばらしいめぐみに満ち溢れていると同時に、望ましくない物も存在するのです。
旧約聖書に登場する「東の国の長者ヨブ」は、ある日突然、
全財産と10人の子どもを同時に失うという不幸に見舞われました。
信仰の優等生であり、いかなるときも神に従う姿勢を貫こうとするヨブは、
「主は与え、主は取られる。主のみ名はほむべきかな。」(旧約聖書・ヨブ記1章21節)と言いました。
さらに、彼自身が悪性の腫物に打たれて、見るも無残な状態になり、
それでも、神に愚痴をこぼさないヨブを、彼の妻はあざけりました。しかし、
ヨブは言ったのです。
「私たちは神から幸いを受けるのだから、わざわいをも受けなければならないのではないか。」(同2章10節)
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「あいつら頭が悪い」と言えるような人は、その口を、誰からもらったのかを忘れています。
自由に話すことができない人は、自分であったかもしれないという想像力に欠けています。
障害者のために「たいへんな税金が使われている」と計算できるのに、
自分が生きているコスト。生まれたときから26歳までのコストがどれほどになるのか、
計算ができないのです。
生まれ落ちた一人の赤ん坊を養うためにお金を使うのは、親だけではありません。
保育園も幼稚園も小学校も中学校も、公立の学校だけでなく私立の学校も、
たいへんなコストをかけて、ひとりの子どもを大人にするために、養育するのです。
コストは大人になってもかかっています。
会社も事業所も、地域社会も、
それ以上に、この世界のお造りになった神様が、
ひとりひとりの人のために、莫大なコストを払っているのです。
私が、やっと成人した頃、親世代が言うのを聞きました。
「まったく、ひとりで大きくなったと思っているのだから」
大人になっても、人はひとりでは生きてけません。
自分で働き、給料を取り、自分や家族の必要を賄えるとしても、
決して全部を、自分で賄えていないのです。
かくいう私も、このようなことに、もう少し早く気付いていたらよかったのにと、
ほぞを噛むのです。