ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

相模原殺傷事件2

2016年07月28日 | 聖書



     重複障害者という言葉を初めて耳にする方も多いと思います。
     重度の障害を持っている人の多くが、障害を二つ以上もっているのです。

     体が不自由なのに、心臓にも病気があるとか、てんかんがある。
     脳のどこかに障害がある。目や耳も不自由。

     私たちは、ちょっと風邪をひいて熱があっても、ほかの人と対等には行動できません。
     指一本傷ついても数時間から、何日も気分が悪くなることがあります。

     体が思うように動かず、目が不自由で、耳も不自由で、慢性的な病気をかかえていたら、
     ほとんど自立して生活することは困難です。
     生まれたときから、薬を飲まないでは生命を維持できず、
     大きな手術で体を作り直さなければいけないとしたら、
     あらゆる面で、健常者と差がでてきてしまいます。
     まして、すべての司令塔である脳に障害をもっていると、環境に適応すること自体難しいのです。

     様々な障害がなぜ起こるのかは、ほんとうにはわかっていないでしょう。
     仮に、その原因を特定できるようになっても、それがなぜ、Aの身の上に起き、なぜ、Bではなかったのか、
     答えることができるでしょうか。

     「本人が悪いのですか。それとも両親が悪いのですか」
     (新約聖書・ヨハネの福音書9章2節)と問うことは簡単ですが、

     そんな問いをする「私」や「あなた」が、
     重い障害者として生まれなかったという理由はないのです。

               

     私たちが障害者を援助をしなければならない理由は、
     障害を持って生まれる可能性は、だれにもあったからでしょう。

     私たちが生きている世は、神の恵みが、ある意味遮断されている「罪の世」ですから、
     すばらしいめぐみに満ち溢れていると同時に、望ましくない物も存在するのです。

     旧約聖書に登場する「東の国の長者ヨブ」は、ある日突然、
     全財産と10人の子どもを同時に失うという不幸に見舞われました。

     信仰の優等生であり、いかなるときも神に従う姿勢を貫こうとするヨブは、

     「主は与え、主は取られる。主のみ名はほむべきかな。」(旧約聖書・ヨブ記1章21節)と言いました。

     さらに、彼自身が悪性の腫物に打たれて、見るも無残な状態になり、
     それでも、神に愚痴をこぼさないヨブを、彼の妻はあざけりました。しかし、
     ヨブは言ったのです。

     「私たちは神から幸いを受けるのだから、わざわいをも受けなければならないのではないか。」(同2章10節)

              

     「あいつら頭が悪い」と言えるような人は、その口を、誰からもらったのかを忘れています。
     自由に話すことができない人は、自分であったかもしれないという想像力に欠けています。
     障害者のために「たいへんな税金が使われている」と計算できるのに、
     自分が生きているコスト。生まれたときから26歳までのコストがどれほどになるのか、
     計算ができないのです。

     生まれ落ちた一人の赤ん坊を養うためにお金を使うのは、親だけではありません。
     保育園も幼稚園も小学校も中学校も、公立の学校だけでなく私立の学校も、
     たいへんなコストをかけて、ひとりの子どもを大人にするために、養育するのです。

     コストは大人になってもかかっています。
     会社も事業所も、地域社会も、
     それ以上に、この世界のお造りになった神様が、

     ひとりひとりの人のために、莫大なコストを払っているのです。


     私が、やっと成人した頃、親世代が言うのを聞きました。
     「まったく、ひとりで大きくなったと思っているのだから」
     
     大人になっても、人はひとりでは生きてけません。
     自分で働き、給料を取り、自分や家族の必要を賄えるとしても、
     決して全部を、自分で賄えていないのです。


     かくいう私も、このようなことに、もう少し早く気付いていたらよかったのにと、
     ほぞを噛むのです。