約束の地に着いてから殺人事件があり、被害者は町の外で発見されたのに、現場を目撃した者が、
いない場合は、つぎのようにしなさい。(旧約聖書・申命記21章1節)
まるで、ミステリー小説のような書き出しの聖書箇所です。今日はあえて、
やさしく意訳で知られるリビングバイブルからの引用です。
「死体発見!」というのは、いつの時代でも「事件」です。犯人探しが始まります。
当時のイスラエルの捜査官は、町の長老と裁判官でした。
まず、長老と裁判官が、死体から最も近い町はどこか調べます。(2節)
どこかわかったら、その町の長老が、まだ仕事をしたことのない雌の子牛を引いて、(3節)
どうやら、死体から一番近い町に嫌疑がかかっているようです。
監視カメラも、指紋やDNA鑑定もなかった時代、有罪の決め手は圧倒的に目撃証言でした。
目撃者もいなければ、犯人を絞るのはとても難しかったことでしょう。
嫌疑をかけられた町は、ひょっとして犯人とはなんの関係もないかもしれません。
けれども、それを争うのではなく、次のような手続きで、免罪してもらうのです。
渓流の流れる開墾されていない谷間へ行き、そこで子牛の首を折ます。(4節)
それから、祭司が進み出ます。神様は聖所の仕事や人々を祝福することばかりでなく、
訴訟が合ったり、事件が起きたりした時に判決を下すためにも、祭司を選ばれたのです。(5節)
そこで、町の長老たちは子牛の上で手を洗いきよめ、きっぱり宣言します。(6節)
「被害者に手をかけたのは私たちではありません。私たちが全く知らないうちに事件は起きたのです。(7節)
神様、どうぞお赦しください。私たちは神様が買い取られた国民です。その私たちに、
罪のない者を殺した罪を負わせないでください。」(8節)
こうして、神様の指図どおりに罪悪を取り除きなさい。(9節)
――リビング・バイブルより――
どうしても捜査が不可能なとき、無理矢理に犯人を探索すれば、冤罪者をつくります。
世の中には、人の力では究明できない事件があるのですから、
そのときは、無理矢理、犯人捜しをしないで、
行政と、司法の長が責任をとりなさいというのです。
責任は、神様に最高の犠牲(ささげ物)をささげて、お詫びをすることです。
ちなみに、まだ、仕事をしたことのない雌の子牛は犠牲の中では一番高価な動物でした。
トップのものが責任を取る、それも神様に対して責任を取るといった心構えが、
すばらしいと思うのです。