神さまは、最初地上にただ一対の男女を置かれました。
エバがアダムに与えらえられた時、アダムは彼女を見て、
「これぞ、私の骨の骨、肉の肉」といって喜んだのです。(旧約聖書・創世記2章23章)
楽園エデンの園には、何でもそろっていたのですが、
神様は、「人間が一人でいるのは良くない。彼に助け手を造ろう」と仰せになって、
エバをお造りになったのです。(同2章18節)
ふたりしかいない時には、外見の様子などはあまり意味がなかったのでしょう。
彼らの外見に対する描写は、いっさいありません。
彼らは、全裸だったのですが、その外見を評価するような者もいなかったので、
これだけ考えても、とても幸せな時代ですね。
じじつ、彼らは、自分たちが、「全裸である」ことさえ、「知らなかった」のです。
知恵の実を食べて目が開けたあと、はじめて、たがいに裸だと気がついて、互いに恥ずかしいと思い、
いちじくの葉をつづり合わせて腰をおおったのです。
夕方になって、神様が彼らをお呼びになったとき、彼らは、初めて「神様から」隠れたのです。
神さまに、「なぜ隠れたのか」と聞かれて、「裸なので恥ずかしいと思いました」と答えています。
「あなたが裸であることを誰が教えたのか」と、続くのです。
人は、じつに、「目が開けた」瞬間から、うわべを気にしていたんですね。
★★ ★ ★★
人のうわべが、悲劇的なのは、それは「朽ちる存在」のためですね。
どんなに、美しい外見も、年月とともに壁土のように剥落(はくらく)していき、
どんなに強靭な肉体でも、やがては衰えていくのです。
アダムとエバが恥じたのは、自分たちの有限の姿を見たからでしょうか。
神様と対等になるといわれて知恵の実を食べたのに、
そこには、みるも恥ずかしい姿があった・・・?
★ ★ ★★★
王制になったイスラエルに突然、たくさんの美しい男たちが現れます。
美貌は、「完全」を表徴するのでしょうか。
たしかに、人がどれほど、化粧や身なりに気を使いお金を使っているかを考えれば、
神の御心とは反対だと「思って」いても、私たちは、うわべを繕うのかもしれません。
ダビデが70歳になったときです。
ダビデは老いて、病気がちになりました。家来たちは、
王の世話をする若い娘をさがしだしてきて、
仕えさせます。
この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、
王は彼女を知ろうとはしなかった。(旧約聖書Ⅰ列王記1章4節)
一方、ハギテの子アドニヤは、「私が王になろう」と言って、野心をいだき、
戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れた。(5節)
――彼の父は存命中、「あなたはどうしてこんなことをしたのか」と言って、
彼のことで心を痛めたことがなかった。
そのうえ、彼は非常な美男子で、アブシャロムの次に生まれた子であった――(6節)
若い美しい娘にも心動かされなくなったダビデ。
王が弱ってきたとき、王宮は騒然としてきます。
そのとき、王子アドニヤは、自分こそ次の王になろうと思い、戴冠の儀式に必要な
戦車や騎兵や従者を集め、即位を宣言するのです。
彼は、アブシャロムの次に生まれた王子でした。
アブシャロムがクーデターに失敗して倒れたとき、
「これで、王位は自分のもの」と思ったかもしれません。
なんといっても、アドニヤも美男子で、
父親から叱られたことは一度もなく、父親を心配させたこともなかったのです。
アブシャロムの容姿は、「頭のてっぺんから足の先まで、非の打ち所がなかった」と
説明されていました。
してみると、容姿の「完全さ」が、心の完全さだと思われたのでしょうか。
「人はうわべを見るが、神は心を見る」と言われた神の価値観がないがしろにされ、
ダビデの王宮にも、悲劇が入り込みました。
ちなみに、アドニヤを制して王になった
ソロモンがどのような容姿であったか、直接の言及はありません。
彼の母、バテ・シェバは、ダビデの8番目の妻で、
ソロモンはダビデの7番目の息子でした。