去年の12月24日夜、クリスマスイブに上演したのは、降誕劇でした。
じつは、ここ4年ほど続けて、降誕劇を上演しています。脚本と演出は少しずつ変わるのですが。
イエス・キリストが馬小屋でお生まれになったというお話です。
このエピソードと、それに先立つマリヤの懐妊が
処女懐妊だったことは、クリスチャンでなくてもご存じなのではないでしょうか。
これは、クリスチャンにとっては、ぜったいに譲ることのできない聖書の真実です。
けれども、ノンクリスチャンの方にとっては、これこそが
キリスト教への最初のつまずきの石かもしれません。
考えてみたら、自分も学生時代、処女懐妊なんかあり得ないと
クリスチャンの人と論争したことがあります。
相手は妹のクラスメートで、利発そうな美しいおじょうさんで、
私は当時、大流行だった「唯物論的合理主義」の立場に身を置いたつもりでしたから、
ここぞとばかり、彼女に対決したのですね。
けっきょく、彼女は、
「でも、処女懐妊はあるんです」と静かに言って黙ってしまいました。
● 〇 ◎
さて、時を経て、現在、
私が処女懐妊を聖書の記述のまま、受け入れているのは事実です。
聖書を初めから読んでいけば、しぜんにそうなるのです。
聖書の神は、この世の始まる前から存在しておられ、天地万物を創造された方なのです。
光や闇、太陽や月や星、水、植物や動物、最後に人間をお造りになった方です。
オスとメスがいて次の命が生まるという「法則」も神がお造りになったのです。
しかも、この法則は最初から「例外」があるわけです。つまり、神が「生まれよ」と
命じるならば、生まれる存在があるということです。
ですから、処女懐妊はあるのです。
ただ、神は、ご自分でお決めになったこの世の「法則」に、やたらと例外を造られるのではありません。
とつぜん海が割れたり、空からマナ(パン)が降ってきたりするのは、
聖書の長い長い歴史の中でも、それぞれ、ただ一回のことです。
神はそれが、人間に救いをさとらせるために、絶対に必要なときには、
そのような例外措置をとられるのだと、考えられています。
※ 閑話休題 ※
今、私が思い出しているのは、特定の記述についての成否ではなくて、
降誕劇のことです。
この降誕劇では、「宿屋のおかみさん」を登場させました。
赤ん坊(イエス・キリスト)を取り上げた女性という設定です。
聖書には、直接は言及されていないのですが、馬小屋といえども所有者がいる建物でしたから、
ヨセフとマリヤがその許可なしには入って使うことはできなかったはずです。そこで、
宿屋のおかみさんの登場となるのです。
このおかみさんが、マリヤの産んだ赤ん坊イエスを見て、
「この赤ちゃんが救い主? イスラエルの新しい王さま?」と尋ねるのです。それから、
「すごいやん!」と感嘆の声を上げるのです。
このセリフは、もともと、「すごいわねえ」と標準語で書かれています。
それを、演出家の機転で
キャストの女性の「関西弁」を生かして「関西弁で自由に言いなおしてくれていいから」
となったのです。
これは図星でした。
自分の言葉で、「すごいやん!」と驚く宿屋のおかみは、生き生きしていて、
観客席も、じつに楽しそうにその言葉を受け止めたのが、わかりました。
さとうはもとより、母語が関西弁ですから、うれしくて舞い上がりました。
それから、もう10日以上も経つのに、
「すごいやん!」が私の脳裏を離れないのです。
私たちは、「主をほめたたえましょう」を第一にしています。
礼拝は、「お名前をほめたたえます」から始まります。
祈りも「あなたのみ名をほめたたえます」から始まります。
とうぜんです。ほめたたえる価値のない方に礼拝や祈りをささげても仕方がないからです。
天地万物と同じように、この小さな自分も創造して下さって支えて下さっている方、
やがては、肉体を失うときも、神様の御許に引き上げて下さる方、
だからこそ、「お名前をほめたたえる」のです。
しかし、これが、どこか翻訳調の言葉で、
やまと言葉でないのは誰でも感じるのではないでしょうか
そんなわけで、私には、「すごいやん!」がどんぴしゃりでした。
関西人でない観客も、どうやら、
「すごいやん!」とたたえるほうがしっくりきたのではないでしょうか。
以来、私の頭の中を、「すごいやん!」が占拠しています。
(つづく)