今回気がついたのですが、「踏絵」は、信者をあぶりだすというより、
信者の背教を促しているんですね。
大切なものを足蹴にしたという素朴な、しかし、深い罪悪感の中で彼らが信仰の貞節を放棄したと、
本人にも、周りの人間にも思わせる。
ぎゃくに、踏絵が、棄教の分水嶺となるなら、
どのような脅しや死を目前にしてさえ踏まない者もいたわけです。
私自身は、初めにも言いましたが、踏絵の中に神様がいらっしゃるとは思わないですし
聖書にも、そのようなことは書かれていないのです。
映画の中で、パードレ・ロドリゴがロザリオの玉をばらして、人々に与えながら、、
「人々は形のあるものを欲しがる」とつぶやいていましたが、
このような人間の心理が、彼には「間違いである」ことはわかっていたのです。
でも、あれほど孤立した状態で信仰を守っていくために、人々が「形あるものを」求めるのを、
彼は、「聖書的でない」と杓子定規に「いさめることなど」できなかったのかなと思っています。
まあ、もともと踏絵に意味がないなら、踏み絵による棄教も意味がないと思うのです。
そもそもあれほど強制的に死をちらつかせて取り締まれば、
多くの人は、降参するでしょう。
自分はとにかく、家族や一族までが殺されるのを見て、揺らがない人などいないでしょう。
つまり、踏絵を踏ませることはできるでしょう。
しかし、棄教を強制することなどだれにもできないのではないでしょうか。
キリストが十字架刑で死ぬのは、AD30年の出来事です。
それから300年ほど、キリスト教徒は迫害を受け続けたのです。
それらは、踏み絵よりはるかに、苛烈な方法が実行されていました。
キリスト教が、ローマ帝国で「公認された」のはAD313年と言われています。
たしかに、踏絵で、表向き棄教させることはできるかもしれません。
活動を封じ込めることもできるでしょう。
人の圧力では、信仰の灯を踏みつぶすことはできないのです。
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい
(マタイの福音書10章28節)