ノアの小窓から

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映画「沈黙」より  背教、棄教

2017年01月28日 | 聖書

                      

       今回気がついたのですが、「踏絵」は、信者をあぶりだすというより、
       信者の背教を促しているんですね。

       大切なものを足蹴にしたという素朴な、しかし、深い罪悪感の中で彼らが信仰の貞節を放棄したと、
       本人にも、周りの人間にも思わせる。

       ぎゃくに、踏絵が、棄教の分水嶺となるなら、
       どのような脅しや死を目前にしてさえ踏まない者もいたわけです。

       私自身は、初めにも言いましたが、踏絵の中に神様がいらっしゃるとは思わないですし
       聖書にも、そのようなことは書かれていないのです。

       映画の中で、パードレ・ロドリゴがロザリオの玉をばらして、人々に与えながら、、
       「人々は形のあるものを欲しがる」とつぶやいていましたが、
       このような人間の心理が、彼には「間違いである」ことはわかっていたのです。

       でも、あれほど孤立した状態で信仰を守っていくために、人々が「形あるものを」求めるのを、
       彼は、「聖書的でない」と杓子定規に「いさめることなど」できなかったのかなと思っています。


                              
          

       まあ、もともと踏絵に意味がないなら、踏み絵による棄教も意味がないと思うのです。
       そもそもあれほど強制的に死をちらつかせて取り締まれば、
       多くの人は、降参するでしょう。

       自分はとにかく、家族や一族までが殺されるのを見て、揺らがない人などいないでしょう。
       
       つまり、踏絵を踏ませることはできるでしょう。
       しかし、棄教を強制することなどだれにもできないのではないでしょうか。

       キリストが十字架刑で死ぬのは、AD30年の出来事です。
       それから300年ほど、キリスト教徒は迫害を受け続けたのです。
       それらは、踏み絵よりはるかに、苛烈な方法が実行されていました。

       キリスト教が、ローマ帝国で「公認された」のはAD313年と言われています。

       たしかに、踏絵で、表向き棄教させることはできるかもしれません。
       活動を封じ込めることもできるでしょう。

       人の圧力では、信仰の灯を踏みつぶすことはできないのです。
       


        からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
        そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい 
                                               (マタイの福音書10章28節)