この映画のポイントとなる言葉は、まず、「踏絵」
もう一つは「沈黙」にシフトされているように見えます。
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信者が、信仰のゆえに大変な苦難に逢っている時に、
「どうして神は答えて下さらないのか」
「どうして私を(彼らを)救い出して下さらないのか」と叫びたくなるのはしぜんです。
無神論を自認している人でも、「困ったときの神頼み」をしたいのです。
「神がいるなら、
こんな理不尽、残酷、悲しみを与えないでほしい」と言い出すのです。
まして、映画の中で、迫害されている人たちはキリシタンです。
小さな「踏絵」を踏むことさえ恐れている一所懸命の信者で
弾圧下に生きているので、彼らは隠れて信仰を続けています。
隠れているからといって、爆弾を作っているとか、テロを計画しているのでもありません。
そもそもが、食べるのがやっとで、社会的なアクションなどおこしようもない人たちです。
その彼らの無残な殺され方を見ていると、
「神は何故沈黙しておられるのか」と思うのは当然です。
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けれども、映画の中で、神は答えておられるのですね。
宣教師ドロリゴに対して、イエスが踏絵のレリーフに重なって現れ、言われます。
「わたしを踏みなさい。わたしがお前の痛みを担おう」
これは、キリストについて聞いたこともない人から見ると「幻覚」のように思えるでしょうか。
しかし、キリストに救われた人なら、キリストが痛みを担ってくださることを思い出すでしょう。
キリストが十字架を担って死んでくださった痛みに思いを馳せるのです。
キリストが、自分のたくさんの罪(痛み)を担って死んでくださったゆえに、
自分が救われた時の、あの平安を思い出すのです。
神様は、踏み絵を踏まれたがゆえに「痛い」と感じられるのではありません。
踏絵を踏むことに痛みを覚える、その「私たちの痛み」を担ってくださるのです。
棄教した――主を裏切ってしまったという「えも言われぬ痛み」を
「引き受けて下さる」のです。
★★
この映画は、キリスト教をまったく知らない方に、多くの問いを投げかけ、
同時に、キリストに救われ、日々、信仰によって生きている人にも、
もちろん、
問いを、投げかけ、
同時に、もし、答を捜すなら、ちゃんと映画の中で、答が用意されています。
それぞれが、さらに発展した問いを作りだし、それに答えることもできる仕掛けがあります。