さて。その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。(ルカの福音書2章8節)
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光がまわりを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(9節)
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私はこの民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。(10節)。
今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。(11節)
聖霊によって懐妊したマリアの胎の子は、月満ちて生まれました。
さて、降誕劇を作るときの、いくつかの山場のうち、二つがここにあります。
イエス・キリストの誕生が、ベツレヘムの宿屋の馬小屋だったと、聖書は記します。なぜ、ガリラヤのナザレの人が、ベツレヘムに出かけていたのでしょう。その時期に、ユダヤの民はみな自分たち故郷に帰って住民登録をするようにと、ローマ皇帝の勅令が出たからです。当時、ユダヤはローマの植民地でしたから、これは守らないわけにはいきません。ヨセフとマリアはユダ族のダビデの家系だったので、故郷はベツレヘムでした。
臨月の女性でも旅をしなければならなかったのなら、病人はどうだったのでしょう。お年寄りはどうだったのでしょう。皇帝の命令が届かない孤児や乞食や逃亡奴隷はどうだったのでしょう。
想像を巡らせることはできますが、いずれにしても、住民の大移動があって、そのために宿屋がどこも満員だったということです。
いくら二千年前でも、出産は一大事です。産気づいた妻を抱えて、夫ヨセフが焦ったのは間違いないでしょう。この若い夫婦と生まれたばかりの赤ちゃんのために、誰かが手を貸したと想像するのは、無理のない設定かなと思います。宿屋のおかみさんや同宿の旅人が、タオル一枚でも水いっぱいでも差し出す場面を思います。
全世界のすべてを持っておられる神様が、ぜいたくな王子様としてではなく、人に助けてもらわなければならない弱い赤子として、お生まれになったのは示唆的ですね。
数年前の劇風景です。今年はコロナの影響で降誕劇は中止になりました。
すると突然、御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。(同13節)
「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で平和が
みこころにかなう人々にあるように。」(14節)
御使いたちが彼らから離れて天に帰った時、羊飼いたちは話し合った。あ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けてこよう。」(15節)
そして、急いで行って、ヨセフとマリアと、飼い葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。(16節)
もう一つのトピックは、野にいた羊飼いたちに、御使いが、救い主の誕生をお告げになったことです。
羊飼いたちは、住民登録をしたのでしょうか。羊飼いの仕事は、昼夜休みなしです。そのようなハンディのある者に、何か特例はあったのでしょうか。今の選挙の期日前投票のようなことがあったのでしょうか。役人が住民登録の移動出張所として、羊飼いたちの野に出向いていたでしょうか。
彼らには、登録するような故郷があったかどうか。いわば、社会の底辺に押し込まれた人たちでした。
羊飼いは、安息日を守ることもできません。ユダヤ会堂で、民の集会に参加していたかどうかもあやしいものです。結婚して、家族や子供を持つことができたのでしょうか。羊は彼らの財産だったでしょうか。ただ、食事にありつくためだけに、羊飼いの仕事の下請けをしていたのだとの説もあります。
社会の最下層の羊飼いたちに、御使いが、最初にお告げをされたというのは、今の私たちが思う以上の、画期的な出来事ではなかったでしょうか。
驚くのは、羊飼いたちが、お告げを「待ちに待った喜び」として受け止めたことですね。すぐに救い主に会いに行くのです。
ここでも、物語は膨らみました。彼らこそ、救い主を待望していたことが、無理なく描くことができるのです。
世の中から見捨てられているような羊飼いたちも、神様だけは、彼らを捨てないということを、「知っていた」はずです。
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話の通りだったので、神をあがめ、讃美しながら帰っていった。(同20節)
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クリスマスソング集です。とても長いので、適当にお楽しみください。
3 Hours of Christmas Music | Traditional Instrumental Christmas Songs Playlist | Piano & Orchestra