ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

神学生に「喝」

2017年10月20日 | 聖書


    これは、かつて、神学校の教師をしておられた牧師が、神学生に宛てて書かれた文章です。


                         神学生に喝

                                                    西九州教会牧師 佐々木正明


 「神学生に喝」、わたしに与えられたエッセイのタイトルです。なにかとても恐ろしい響きで、わたしの感覚からも生活からも程遠いものです。うちの神学生にも、禅宗の修行僧のように、「喝」が必要なのでしょうか。わたしが神学生なら、真っ先に逃げてしまいそうです。

 今年は6月から8月にかけて、40尾以上のチヌを釣り上げました。一応、チヌというのは1.5kg以上のものを言い、それより小さいのはメイタと言います。ワープロを打ちながら目を上げ、潮がよく、天候もよければちょっと出て糸をたらします。2時間以上費やすことはまずありません。一週間に一、二度でかけます。喝が入っていない伝道者で申し訳ありません。そんなわたしですが、わたしなりに神様にお仕えするうえで最も大切だと思う点を、厳しく守り続けてきました。いわば、それが、わたしなりの喝です。


 わたしが守り続けてきたのは、神に対する献身です。献身とは突き詰めると自分を求めないことです。ただ神の栄光のために自分を投げ出すことです。伝道者として牧師として、自分を捨てきれないと必ず座礁します。近所隣との付き合いも、信徒との関係も、伝道者同士の交わりも、自分を捨てきらないまま行うと、必ず深刻な問題に行き当たります。


 まだ宣教師として働いていたとき、わたしは、近くのバギオという市で開拓を始めたいと願い、多くの障害を取り除いてやっと許可を取り付けました。存在するアッセンブリー教会の半径7km以内で開拓をしてはならないという、おかしな法律がフィリピンのアッセンブリー教団にはあったからです。
 それで、当時協力していた現地の伝道者たちを5人ほど集めて言いました。「この町で開拓したら、3年後にはまちがいなく教区で一番多くの人が出席する教会になると確信している。でもそうなったら、必ず先輩の伝道者たちがうらやみ、さまざまな中傷をし、あらぬうわさをたくさん流し、牧師を追い出し、教会を乗っ取ろうとするに違いない。それが、この教区でくり返されてきたことだから、まず間違いない。そのとき、一言も文句を言わず、いいわけも反論もせず、『神様の祝福がありますように』と言って、教会を明け渡し、次の働きに出て行く覚悟のある者はいるか? もし、いなければ、残念ながら、この開拓はできない。」
 するとわたしと始めから協力していた伝道者が言いました。「僕がやります。」    


 そのようにして始められた開拓は、市の規模と人口に応じて大きくなり、3年後には三つの言葉の礼拝会をすべて合わせると、500人を越える出席になり、活発に成長し続けました。
 しかし同時に、はじめから予想していたように、先輩の牧師伝道者からの横槍がたくさん入りだしました。牧師に対する汚い作り話も次から次と流されてきました。それであるとき、その伝道者と家族全員を食事に招いて言いました。
 「そろそろ始めに約束したことを実行するときではないか?」 牧師の奥さんが「わたしもそう思います」と手助けをしてくれました。それで牧師は、「今度の日曜日が、わたしのバギオ教会の最後の奉仕です」と宣言し、その通りにしたのです。
 彼は礼拝の説教のあと、「神様がわたしに新しい幻をあたえ、開拓に出て行くように励ましてくださっています」と言って、会衆の祈りを求め、不平も泣き言も一切言わず、教会を去ったのです。そして、もっとも困難な町といわれる場所で、再び開拓を始めました。あまりの潔さに、古参の伝道者たちもそれ以上画策することができず、教会はわたしたちが連れてきた副牧師に任せられるようになりました。


 わたしたちの採った方法が、果たして賢かったか。良い方法だったか。いろいろ議論はできるでしょう。ただ、一つだけは言えます。 彼の献身、すなわち神様の栄光だけを求めて自分を捨てる決断が、教会を破滅から救い、教区を牧師たちの争いの場とすることから救ったのです。自分の栄光を求めない伝道者こそ、どのようなときにも必要とされている伝道者だと、わたしは信じています。

 神学生諸君は、「喝!」などと叫ばれると震えだす弱々しい伝道者になってもいいと思います。あまり能力がないと言われてもいいのです。でも、自分を捨てることができる伝道者になってほしいと、心から願うものです。


         筆者紹介
         日本アッセンブリ-ズ・オブ・ゴッド教団、西九州教会牧師
         1944年、満州で生まれ、高校1年生の時、北海道でキリストと出会う。
         東京の中央聖書神学校、マニラのアジア太平洋神学校などで学び、
         牧師、宣教師として50年以上、日本とフィリピンで働く。



        ★★ ★ ★★


    キリスト教では、人間は神になりえません。
   どのようなりっぱな人も、能力や才能がある人も、大きな功績を残した人も、
   たとえ、宇宙に出かけることができても、金メダルをいくつも授与されても、
   万巻の書物に通じ、万巻の書を著わしていても、
   世界中のに人たちから、見上げられるような人であっても、
   核のボタンを押す権力をもっていても、
   人間は、人間であって、神ではありません。

   
   神が万物をお造りになり、宇宙、天体、地球、植物、動物をお造りになって、最後に
   人間をお造りになった。ただ、神は人間を特別な存在として、
   「人間を、神の似姿に」「人間に、神の霊をそそいで」造って下さったのです。
   この神は、全能で、宇宙と私たちのすべてに対して、すべての全権をお持ちです。
   私たちが生まれる前から、死んだ後まで、
   永遠の未来までも「知っておられ」「統べておられる」方です。
   これは、もちろん、私が言っているのではなく、聖書に証しされていることです。

   
   神の霊をいただいて「生きるものとなった」私たち人間には、
   ほかの動物にはないもの――「祈る心」があります。神と霊的につながりたいと切望するのです。

   キリスト教会は、そのような神からの霊的充足を求める人たちの集まりです。
   キリスト教会は、神みずからが、神を求める人たちのために、建てて下さったのです。
   キリスト者(クリスチャン)は、教会に集まることによって、
   神の愛を、この世に体現しようとするのです。

   教会も、この世にあるかぎり社会的組織であり、運営と教育のためのルールと人材が必要です。

   教会で働く人たちを、牧師(プロテスタント教会)伝道師、神父(カトリック教会)などと呼び、
   それぞれの「神学校」「聖書学校」があり、献身を志す人たちに、必要な学びと指導をしています。

   しかし、どのような指導者も、けっして神の代理ではありません。「神に仕える者」です。

   筆者である佐々木牧師は、神の栄光のために、自分を捨てることができる者こそ、
   まことの献身者だと断言しています。
   
   

   
   
   
   
     「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
     わたしが愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛しなさい。
                               
     もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、
     あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」 
                             (ヨハネの福音書13章34節35節)






   







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