人の心は病苦をも忍ぶ。
しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(箴言18章14節)
きょうの聖書通読エッセイの箇所にあった言葉です。
ほんとうに、深くうなずいてしまいます。
たくさんの方々が、病院で深刻な病と闘っています。人間は不治の病であっても、なんとか、
治療して元気になりたいと願うのです。
生きようと思うかぎり、大きな傷痕の残る手術も、副作用の強い抗がん剤やつらいリハビリにも、
立ち向かえます。
しかし、心がひしがれた瞬間、人間は耐えきれなくて、折れてしまうのではないでしょうか。
★★
だからといって、「打ちひしがれた人」に「元気を出しなさい」と励ますのはどうでしょうか。
「心を前向きにシフトして」「いつもポジティヴに」
なんて、言ってもらって、どうなるわけでもないでしょう。
箴言がこの言葉を載せているのは、
心のひしがれた人を励ますためでも、
そこから脱出する方法を、てっとり早く教えるためではなく、シンプルに、
だれでも、
人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか
となり得ると、宣告しているだけだと思います。
人間は、ついはっきりした答えを欲しいと思うのですが、
聖書は、容赦なく、問題を問題として投げかけています。
たとえば、次のことばはどうでしょう。
貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。
彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおされのこと。(箴言19章7節)
★★
赤裸な人間の心を、ポンと提示されて、
「これはひどい! 少なくとも私は違う!」とは、
だれも言い切れませんね。
自分にも思い当たる弱さや闇、これが、罪(SIN)と言われるものだと納得です。
ちなみに、箴言の前置きは次のようになっています。
イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。
これは、知恵と訓戒とを学び、
悟りのことばを理解するためであり、
正義と公義と公正と、
思慮ある訓戒を体得するためであり、
わきまえのない者に分別を与え、
若い者に知識と思慮を得させるためである。
知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、
悟りのある者は指導を得る。 (箴言1章1節~5節)