昨日紹介させていただいた、「折々に思う」シリーズをもう一つ掲載させてください。
佐々木正明師は、「神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る」の著者です。
ネットにたくさんの記事を掲載しています。佐々木正明で検索してくだされば見ることができます。
折々に想う
季節や出来事、人との会話に触発されて想うことを、とりとめもなく書き記します。
2017年12月14日
すべての面で幸いを得る
愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。 (新約聖書ヨハネの手紙Ⅲ2節)
時計には時計がつくられた目的があり、猫には猫が生かされている生き方があります。当然、神に似せて造られた人間には、人間として生きる目的があります。時計を磁石の代わりにしてはなりませんし、猫に猟犬の真似をさせてもなりません。人間も、他の動物のように生きてはならず、人間らしく生きなければなりません。人間らしく生きることによって、はじめて、人間は人間としての幸せを得ることが出来るのです。
Ⅰ. 神の目的
天地をお造りになり、ご自分に似せて人間をお造りになった神の目的は、はかり知れません。それを突き詰めて知ろうとすることなど、思い上がりであり、僭越きわまりありません。とはいえ、聖書の記述により、大まかな、基本的なことは想像できます。
天地の創造は、神の創造性の表現であり、人間の創造は神の愛の表現であるといえます。神はご自分に似せて人間を造り、神と交わり、神の愛を感じ、神を愛することが出来るようにしてくださいました。神に似せて造られてはいない他の動物には、そのような宗教的本能は与えられていません。人間の生きる目的は、神がお造りになった天地と自然に包まれ、その恵みを受けながら、神に感謝と敬愛を捧げて生きることでした。また、同時に、神に愛されている人間同士が仲睦まじく生きて、神に喜んでいただくことです。神は、人間が幸せに生きることをこの上なく喜んでくださるのです。
ところがこの神の喜びは、人間の不従順の罪によって妨げられてしまいました。人間を包んでいた自然は、人間の罪のために破壊され、人間にとって脅威となることが多くなってしまいました。土地は枯れて産物も不充分になり、疫病がはやり、虫や獣も害を与えることが多くなりました。人間の心も捻じ曲げられ、互いに嫌い、憎み、傷つけ合うようになってしまったのです。最大の問題は、聖い神との交わりが途絶え、豊かな愛を感じることも、敬愛の気持ちを捧げることも難しくなってしまったことです。その結果、人間の中に溢れていた神の命は枯渇して、死を待つ運命に突き落とされたのです。人間は滅びに入ってしまいました。
今の私たちの世界は、滅びの世界、悪魔の支配に置かれた世界なのです。そこで人間は苦しみながら生きるようになったのです。これが創世記の3章以降に記されている大筋です。
Ⅱ. 神の救いの準備
人間は罪のために、滅びの中に入れられてしまいました。だから、苦痛の中に生きているのです。(エペソ2:1~3) しかし、神はその人間を滅びの状態に捨て置かず、何とかしてこれを救い出そうとしてくださいました。まず、聖いご自分から遠ざけ、聖さに打たれて死ぬことが無いようにしてくださった上、さらに自然の破壊にも、人間の心の破壊にも限界を定めて、人間が生き続けるようにしてくださいました。そのために、人間は苦しみながらも、いろいろなところに神の祝福を味わいながら、生き続けているのです。
神は罪を犯した人間への愛を絶やさず、罪の力と悪魔の支配、永遠の滅びから救い出すための働きを、推し進めてくださいました。神は悪魔の支配の中でも増え続けた全人類の救いのために、イスラエルという一つの民族を選び出し、彼らの中に救い主を誕生させて救いの働きを完成させ、全世界に救いを及ぼそうとなさいました。
神は、罪と悪魔の力に支配され滅びに向かっていた人類に、イスラエルという民族を通して救いをもたらそうとなさったのです。そのためにイスラエル民族は神の特別の守りと、教導を受けたのです。そのことを記したのが旧約聖書でした。さらに、神がイスラエル民族を用いて完遂して下さった、救いの働きを説明し、それを全人類に及ぼすための計画を教えるために、新約聖書が与えられたのです。旧新約聖書全体は、人間の基本的生き方を教えるためのものではありません。人間の基本的生き方は、神に似せて造られたとき、本能として人間の性質に刻み込まれ、教えられているのです。聖書は救いを教えるためのものですが、その中に、罪のために分からなくなっている人間の基本的生き方も、改めて教えられているわけです。
Ⅲ. 神の救いの実現
神の救いの準備と実現の具体的内容は、ただ新約聖書によってだけ知ることが出来ます。神に似せて造られた人間の本性、すなわちパウロが言う「心に記された律法」(ロマ2:15)は、人間が神に与えられた環境の中で生きるための基本的な教えを、本能として知り、また実行できるように与えられています。しかし聖書、すなわち文字で書かれた律法は、滅びに陥った人間が救われるための教えが記されているのです。
救い主、すなわちキリストを通して完成された神の救いは、神ご自身の犠牲、神の痛みを通して遂行されたものです。人間はその高さも深さも計り知ることはできません。聖書の教えによって、少しだけ理解することはできますが、理解できなければ救われないのではありません。救いは100パーセント信仰によるのです。すなわち、信頼することによって与えられるのです。救いを計画し、それを遂行してくださった神を信頼するならば、神はその信頼を喜び、キリストを通して完成して下さった救いを、私たちに与えてくださるのです。
その救いは、独り子キリストの死というあまりにも尊い犠牲であるために、何をもっても買い取ることが出来るものではありません。高価すぎて買い取るのは不可能なのです。そのために、ただ、神に信頼することだけで与えられるのです。与えられたなら、ただただ感謝を捧げること以外にはありません。神は信頼されることを何よりもお喜びになるのです。
信頼は知識ではありません。本能的感覚です。赤ちゃんは何を知らなくても、母親に信頼します。信頼するから守られ、愛され、育てられるのです。私たちも、神を感じるように造られています。だから、心で感じる神を信頼するだけでいいのです。
ただ、罪のために神から隔離されていた私たちは、迷子になった子供のように、母親がどこにいるのか、たくさんいる女性たちの中で、どれが母親なのか分からないような状態にいます。それで、母親を特定するために、ただ「お母さ~ん」と呼ぶだけではなく、自分の名前を入れて「○○のお母さ~ん」叫ぶように、私たちもいま、「神さま」とお呼びするだけではなく、「天地を造ってくださった神さま」と、特定してお呼びするのです。救いはキリストを通してすでに完成されています。その救いは、神を信頼するだけで、その信頼のゆえに、無代価で与えられるのです。ただ、「天地をお造りになった神様」とお呼びして、信頼すればいいのです。
私たち人間には、神様を感じ、信頼することが出来る、霊的な性質が与えられています。その性質をもって、私たちを愛し、私たちを救い、私たちをあらゆる良いもので祝福しようとしておられる、この神様に信頼して行きましょう。そして神との交わりを回復し、自然を喜び、人と人との繋がりを楽しみ、人間としての本来の目的にあった生き方をして、神にも喜んでいただきましょう。