ノアの小窓から

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伝道者の書10、金銭を愛する者は金銭に満足しない。(伝道者の書5章8節~16節)

2020年05月15日 | 聖書



 ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる。(伝道者の書5章8節)

 かつては、日本でも「役得(やくとく)」という言葉がありました。どんな役職にも、俸給以外の利益があることです。小さな「わいろ」をもらうこと、公共の物を私物化すること、本来一割の税金を一パーセント水増しして、水増し分を自分の取り分とすること。ときには、セクハラ、パワハラを権利だと思って横暴を行なう人もいたのです。餌食になるのは、貧しい者、弱い者です。義憤に駆られる人もたくさんいたに違いありません。王のもとにはそのような不正についての、訴えもあったことでしょう。

 でも、そういうものが、世の中に蔓延している世界では、じっさいにも効果的な取り締まりは、ないわけです。繁殖したはハエを追うようなものです。
 そこで、伝道者は言うのです。彼らには、彼らを見張る上役がいる。上役にはさらに上役がいる。――役得は決して、野放しにされているわけではない。
 この上役の上位にたどれば、王に行きつき、王の上には神がおられる、となるわけです。

 すべての権威は神からくる、王の権威は神に委任されたものという考えは、古来どの文明にもあったと思われます。だからこそ、素朴な集落の酋長から大国の王まで、頂点に立つ者は国の祭祀の責任者でもありました。

 問題は、王が、神のご意向をうかがって、不正を取り締まることができるかですね。
 上役の頂点にいる王が、まじめに不正を取り締まることはあったでしょう。ただ、不正を、完全に断罪できなかったのは事実でしょう。私たちは、王でななくても、みなある意味、汚れた手をもって生きているのですから、とくに、王はそのような汚れた手を持った官僚に支えられているのですから、無理に彼らを切ると、自分の手足を切ってしまうはずです。

 英明な王ソロモンは、そのようなジレンマに十分気付いていたことでしょう。
 無力な立場の王に、もし、意味があるならと、あれこれと考えたのではないでしょうか。
 その結果、彼は、王の役割を見つけるのです。 

 何にもまして、国の利益は農地を耕させる王である。(9節)

 ソロモンは、王の存在は国の利益だと結論しています。王がいて、効率的なピラミッド型の指令系統があって、民は農地を耕すことができるというのです。それによって民は安定した暮らしの中に安らぐことが出来る。それこそが、神の平和の具現化であり、神の望んでおられることだと、考えたのではないでしょうか。

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 金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。なんこれもまた、むなしい。(10節)


 金銭や富を愛する者は、たしかにその財産に「「満足」はないのかもしれません。失う恐れが増すため、もっともっとと求めるのです。とはいえ、このあたりの理屈は、「富」を持った経験のないさとうにはよくわからないのです。現代社会では、お金は良い使い道もたくさんあるはずですから。

 財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。(11節)

 これも昔から言われつくしていることです。杜子春の話などに見るように、金持ちになると人が集まってきます。うやうやしく扱ってくれる人も増えます。虚礼と面従腹背の世界の頂点に君臨していた伝道者は、その意味でも、富にうんざりしていたかもしれません。
 

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 働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。(12節)

 昔から「畳一枚あれば眠れる、米四合あれば満腹する」と言われてきました。富む者の安眠が妨げられるのは、「盗賊」の心配があったからでしょう。

 私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。(13節)
 その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。(14節)


 仮に盗賊に盗まれなくても、富はさまざまな心配で、持ち主を脅迫し続けます。愛する子供に与える前に失われるかもしれません。
 無事、人生の終わるまで持ち続けていても、死とともに手放さなければなりません。

 母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。(15節)
 これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。(16節)

 「裸で生まれて裸で死んでいく」というのは、だれでも「知っている」ことです。ただ、実際には、なかなか納得できないのです。
 潔白で正しく、神を恐れる人であったヨブは、自分の財産や子どもが一瞬て失われたと知った時「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということができました。(ヨブ記1勝1節2節)
 しかし、更なる災難や病気に苦しめられ、妻や友人からもあざけられ、批判されるようになると、ついに、「私の生まれた日は滅びうせよ」(同3章2節)と、自分の生まれた日を呪うことになるのです。

 ヨブのような災難に遭わなくても、裸で去っていくなら、労苦することに何の益があるのかと伝道者は言います。
 庶民である私たちは、さて、この感覚に共感できるでしょうか。
 







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