私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。(伝道者の書6章1節)
神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。(2節)
富のもつ悪は、それを持つ人が結局「それを楽しむことが許されない」ことだと、伝道者は言います。
富は、持ち主に、富を守り増やすよう強要するだけではありません。その結果として、まわりの人を嫉妬と怒りで包み、その富を奪おうと思わせるのです。
外国からの侵略、盗賊の被害。王位をめぐる争いや革命、富は、常にあらゆる人から虎視眈々(こしたんたん)と狙われているのです。
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もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。(3節)
実際、旧約聖書の世界(紀元前の中東)では、百人の子供を持つ王は珍しくなかったのです。子供は一族の繁栄のしるしですし、とくに王は欲するだけの妻をもつことができたのですから、王子や王女もたくさん生まれるのです。
たくさんの富と子供の数は、祝福のしるしだと考えられた時代です。
しかし、一方で、暗殺されたり、戦場で倒れる王もいたのです。名声のある王たちの無残な最期を、ソロモンは「痛ましい」と考えたのでしょう。彼は、そのような王を,「死産の子」より悲惨だと位置づけるのです。
それくらいなら、最初から生まれてこなかった子の方が良かったというのです。
その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。(4節)
太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。(5節)
彼が千年の倍も生きても、・・しあわせな目に会わなければ、・・両者とも同じ所に行くのではないか。(6節)
ありあまるほどの富があって、寿命が千年あっても、死産の子どもと同じところに行く。それなら、安らかであっただけ(生きる労苦がなかっただけ)、死産の子どもの方がよかったという考えは、ほんとうに虚無的です。読むほうも吐息ため息です。