九十三歳のFさんは、娘さん夫婦の家の隣に住んでいます。二つの家はひさしを接するほどですから、文字通り「スープの冷めない距離」です。
Fさんは、かつては食堂を経営し、四人のお子さんを立派に育てたしっかり者でした。年老いて、遠い故郷から娘さん夫婦のとなりに引っ越してきたのです。初めのうちは活発に外出して、家事もマメにやっていました。しかし、最近数年はちょっと認知症の症状が現れ、家にいて、ディサービスなどに行くのが楽しみの生活になっています。
Fさんが、自分で出来ることはだんだん少なくなってきました。時々は、思いついてガスに鍋をかけるのですが、何をするつもりだったのか忘れて、鍋を焦がしてしまいます。風呂も沸かしたまま忘れるし、下着一枚のために洗濯機をまわし、一日に五回も六回も洗濯することがあります。食事は娘夫婦のところで食べることもあり、自分のペースで食べるたいときもあるのですが、どちらにしても、もう娘夫婦が食事の世話をしているのです。
さいわい、ひとりで家の外を放浪することはなく、自分の身支度もぜんぶ自分でできるのです。
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Fさんの日課は、一日に何十回も郵便受けを見に行くことです。Fさんの住まいも独立した家屋ですから、小さな門があり、郵便受が付いているのです。
郵便受けには、めったに何も入っていないのです。郵便物が来なくなって久しいのです。、チラシやダイレクトメールもほとんど投函されることはありません。門は植木が塞いでいて、チラシを配る人も、廃屋だと思うのかもしれません。
雨が降っても、風が強くても、寒い冬でも、Fさんは郵便受けを開けに行きます。
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私は、Fさんが「期待する人」であることに、心打たれました。たしかに、彼女は認知症かも知れないけれど、なにかを「期待している」のです。
Fさんの庭には、ノラ猫もやってきます。娘さんが決まった時間に食べ物を置いてあげるからです。猫は食べ物を期待してやってくるのです。
Fさんは、何も入っていない空のポストに「期待している」のです。毎日、十分ごちそうで養われ、娘夫婦の愛情に支えられ、何不自由のない老後生活で、それでも、Fさんは、「良い知らせ」があるかもしれないと期待しているかのようです。
話を聞いて、何人かの人がFさんに、郵便を出すことにしました。
宛先に自分の名前が書いている郵便物を受け取って、Fさんの喜びようは大変なものだったのです。
娘さんに、「この人はだれ?」と何度も聞き、日に何度も手紙を取り出しては、封筒がボロボロになるほど見返しています。
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人間だけが郵便受けを持っていて、郵便受けに期待するんだ。と気がつき、私はFさんの行動にとても感動しました。
どんなに大勢の人に囲まれていても、どんなに満たされていても、なお、期待する自分だけのポスト――それは、きっと、生まれてくる時、神様が持たせてくださったのではないでしょうか。
さとうまさこ・聖書通読エッセイCoffee Breakより転載しました、