ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

許しとやさしさを受け取る

2015年09月22日 | 聖書


            人の日は、草のよう。
            野の花のように咲く。(詩篇103篇15節)
            風がそこを過ぎると、それは、もはやない。
            その場所すら、それを、知らない。(16節)


        秋の日差しの中で、コスモスが咲いているのを見る時、
        すでに咲き終わって散って行った、たくさんの花々を想わないでしょうか。

        枯れた姿をしっかりと留めている「死んだあじさい」に心打たれないでしょうか。

        もっとも、こんな感傷は、「いまさら」の発見ですね。
        詩篇の時代(BC1000年~BC1500年)の人たちも、歌っていたのですから。

        鎌倉時代初期ごろ、編まれた平家物語も次のように語ります。
        
          祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、
          盛者必衰の理をあらはす。
          おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
          たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。



                ★  ★ ★★
   

          今年の敬老の日、
          自分は、すでに
          たそがれの陰に覆われている旅人であるらしいと、気がついたのです。
          旅路を急いでも、路傍に腰を下ろして一休みしても、
          やがて、日は沈み、あたりは真っ暗闇になることでしょう。

          そんなことはない。絶対にありえない。
          私たちは文明の華の中に住んでいるのだから。
          町も道も自分の家も,いつでも明るい不夜城に暮しているのだから、

          ほら、聞いてごらん。楽しい音楽が聞こえてくる。踊りも歌も酒も、
          きらびやかな衣装も、何でもそろっている――。
          あなたは、ただ手をのばし、それを受け取るだけでいいのだ。
          いのち?
          大丈夫、いのちだって、買うことができる。あなたが望むなら、
          あなたは、あなたのフィルムを巻き戻すことだってできる!!!

          
          積極思考、繁栄思想が、あざやかに街々をきらめかせ、
          たしかに、「元気」をくれるのだけれど、

          私の道は、変わらず、たそがれの中にあり、

          ある日、私は路傍の木の切り株にすわって、
          『大きな木』の主人公みたいに、
           思わずつぶやくような気がします。
          「休むところが欲しい」
                                                    
       悲観することはないのです。
          「大きな木」は、休ませてくれるのです。
        
            主をほめたたえよ。
            すべて造られたものたちよ。
            主の治められるすべての所で。
            わがたましいよ。主をほめたたえよ。(詩篇103篇22節)


         悲観することはないですね。
         今、切り株にすわっていても、主(=神)をほめたたえることができるのですから。



            夕があり、朝があった。(旧約聖書・創世記1章)


            イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。
            わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
            また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
            このことを信じますか。」(新約聖書・ヨハネの福音書11章25、26節)


                  







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