人の日は、草のよう。
野の花のように咲く。(詩篇103篇15節)
風がそこを過ぎると、それは、もはやない。
その場所すら、それを、知らない。(16節)
秋の日差しの中で、コスモスが咲いているのを見る時、
すでに咲き終わって散って行った、たくさんの花々を想わないでしょうか。
枯れた姿をしっかりと留めている「死んだあじさい」に心打たれないでしょうか。
もっとも、こんな感傷は、「いまさら」の発見ですね。
詩篇の時代(BC1000年~BC1500年)の人たちも、歌っていたのですから。
鎌倉時代初期ごろ、編まれた平家物語も次のように語ります。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
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今年の敬老の日、
自分は、すでに
たそがれの陰に覆われている旅人であるらしいと、気がついたのです。
旅路を急いでも、路傍に腰を下ろして一休みしても、
やがて、日は沈み、あたりは真っ暗闇になることでしょう。
そんなことはない。絶対にありえない。
私たちは文明の華の中に住んでいるのだから。
町も道も自分の家も,いつでも明るい不夜城に暮しているのだから、
ほら、聞いてごらん。楽しい音楽が聞こえてくる。踊りも歌も酒も、
きらびやかな衣装も、何でもそろっている――。
あなたは、ただ手をのばし、それを受け取るだけでいいのだ。
いのち?
大丈夫、いのちだって、買うことができる。あなたが望むなら、
あなたは、あなたのフィルムを巻き戻すことだってできる!!!
積極思考、繁栄思想が、あざやかに街々をきらめかせ、
たしかに、「元気」をくれるのだけれど、
私の道は、変わらず、たそがれの中にあり、
ある日、私は路傍の木の切り株にすわって、
『大きな木』の主人公みたいに、
思わずつぶやくような気がします。
「休むところが欲しい」
悲観することはないのです。
「大きな木」は、休ませてくれるのです。
主をほめたたえよ。
すべて造られたものたちよ。
主の治められるすべての所で。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。(詩篇103篇22節)
悲観することはないですね。
今、切り株にすわっていても、主(=神)をほめたたえることができるのですから。
夕があり、朝があった。(旧約聖書・創世記1章)
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」(新約聖書・ヨハネの福音書11章25、26節)