ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

時がある

2016年03月22日 | 聖書



              天の下では、何事にも定まった時期があり、
              すべての営みには時がある。

              生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
              植えるのに時があり、
              植えた物を引き抜くのに時がある。

              殺すのに時があり、いやすのに時がある。
              くずすのに時があり、建てるのに時がある。

              泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
              嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

              石を投げ捨てるのに時があり、
              石を集めるのに時がある。
              抱擁するのに時があり、
              抱擁をやめるのに時がある。

              捜すのに時があり、失うのに時がある。
              保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。

              引き裂くのに時があり、
              縫い合わせるのに時がある。
              黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

              愛するのに時があり、憎むのに時がある。
              戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
                          (旧約聖書・伝道者の書3章1節~8節)




         年度が変わる季節です。
         卒業したという報告。
         結婚式ラッシュ。
         新しい進路への確信、

         春の花々が出番を待ち、
         間違いなく、春分の日をまたぎ、

         日ごとにゆるむ季節を
         息を詰めて見つめる喜び。

         時があると、伝道者は語ります。


         「伝道者の書」は、旧約聖書の21番目に置かれた書物です。
         作者は、古代イスラエル王国で、
         もっとも隆盛な王であったソロモン(在位BC971~931年)だと言われています。

         世の栄華のすべてを手に入れた王ソロモンの、
         透徹した目が、
         美しさや繁栄に浮かれ、
         滅びを悲しむ人の人の心に

         するどく突き刺さります。
         












       
 

人はうわべを見るが

2016年03月18日 | 聖書
                                         
          イケメンのコメンテーターが、経歴詐称だとたたかれていますが、
          イケメンを喜ぶのは誰かなあと思うのです。

          学歴や経歴も、「美しいパターン」があって、
          それだけで、信用するのは、だれでしょう。

          そりゃ、もう高齢者である私でも、
          実際にイケメンが目の前に現れたら、目を見張るかもしれず、
          まして、輝かしい経歴や地位にも、うなずいて、
          そのチャンネルを毎日見るかもしれず、
          

          視聴者は、テレビや新聞を信用しているのです。
          テレビが招いている人だから、信頼できるとか、

          大新聞に載っている記事だから、信用できるとか。
          舞台を提供していた側が、
          ワイワイガヤガヤ、バッシングしていて、
          いいのかなあと思うのです。
               ★                 

            主(しゅ=神)はサムエルに仰せられた。
            「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。
            わたしは彼を退けている。
            人が見るようには見ないからだ。
            人はうわべを見るが、神は心をごらんになる。
                          (旧約聖書・Ⅰサムエル記16章7節) 



            古代イスラエル王国の時代の初め、
            預言者サムエルは、神様から次期王を選ぶようにと預言を受けて、
            ダビデの父エッサイのもとにやってきました。

            エッサイには息子が八人いて、末っ子のダビデを除く七人が、
            サムエルの前に集められていました。
            いずれも容姿の美しい息子たちで、
            長男エリアブが進み出たとき、サムエルでさえ、
            彼を本命だと思ったのです。

            しかし、そのとき、神が言われたのが、上のことばです。       
         





            
        

大切な人

2016年03月17日 | 日記



      何日か前に、Tさんにお電話をした。
      留守録になっていたので、メッセージを残した。

      二日後もう一度、日中に、電話を掛けた。
      やはり、留守録になった。
      翌日、もう一度掛けたが、つながらなかった。
      
         

      Tさんは、自宅を開放して宣教師さんを招き、「聖書の学び会」を開いておられた。
      常時、10人ほどが集う学び会は、
      Tさんのふんわりと包み込むような人柄を反映して、
      じつにすばらしいサロンだった。
      暮らし向きの豊かな方だったので、ちょっと古風なそのお宅には
      もしや価値ある骨董品?と見える屏風やお軸やつぼ、絵画などが、
      ほの暗い家によくなじんでいた。

 
      月2回もたれる会の中心はもちろん、
      聖書で、聖書の学びを導いて下さるヤング先生で、それ以上に、
      そこに、臨在しておられる神さまだった。

      クリスチャンとノンクリスチャンの割合は、4:5くらいだっただろうか。
      私も、何年かはノンクリスチャンだった。
      
         

      電話が通じないので、そこに集っていたHさんにお電話をした。
      
      Hさんのご主人が出られて、
      「Tさんはお亡くなりになりましたよ」。
      「ええ! 私、去年の夏ごろにお電話を差し上げたんですが・・・」
      「去年の夏に亡くなりました。」
      「ええ、それはいつごろですか」

         

      振り返ってみて、長い人生にはいろいろな場面があり、たくさんの方々と行き会った。
      おおむね私は、人に恵まれていたと思う。
      我が強く、「マイペース」を貫くので、みずから足元を険しくしたようなところがあったけれど、
      多くの人の助けがあって、無事、ここまでたどり着いている。

      それにしても、感謝なのは、
      やはりTさん! 
      聖書は教養の一部(なんという傲慢!!)などと、
      思い込んでいた私を、Tさんは、毎回電話を掛けてきて学びに招いてくださった。
      先生に強い言葉で反論するようなときにも、
      ご自分は一言も話さず、穏やかな笑みを浮かべてやりとりを見守っておられた。

      「もちろん、入信して下さるとうれしいけど、それは神様のなさることだから」と、
       言われ、けっして決心を促されるようなことはなかった。

      
      ところが、
      ある夜、私は
      とつぜん、神様を「見た!」のです。

          

      いろんな良い方々とお会いした人生だったけれど、
      神様とお逢いできたことは、最高の出来事だった。
      最後に大当たりを引いた福引みたいなものだ。

      その日まで、忍耐強く、私を招き続けて、導いてくださったTさんは、命の恩人です。
      なんと言っても、「永遠のいのち」につなげて下さったのです。

      Tさんの死に、もちろん、喪失感はあります。しかし、
      悲しみや恨みはありません。

      私たちは、いつか必ず、天国でお会いできるのです。
      一度だけ、誰かがTさんに尋ねたことがあります。

      「(信じれば)ほんとうに平安がありますか」
      「ええ、もちろん、ありますよ」  
      Tさんは、穏やかに言われたのです。

      心臓に持病を抱えておられたTさんは、あの時も、
      永遠を思い浮かべておられたに
      違いありません。
      地上での最後の日にお会いできなかったけれど、
      いつもの笑みを浮かべて、天に旅立たれたことでしょう。

     
          

          天国でお会いしたら、「ありがとうございました」と申し上げなければなりません。
          でも、やっぱり、ふんわりと言われると思うのです。
          「なんのこと? 」
               
    
       たとえば、彫刻や映像のように姿かたちのあるものを見たのではなく、
                    そこで起こったみわざ(神さまの働き)のことです。

                

 

            

      



      

新芽の季節

2016年03月15日 | 季節



      今朝は久しぶりの晴天です。
      部屋から見える丹沢は広く雪を刷いています。

      数日間寒かったはずです。でも、
           もう、
                    目の前
      
      街路脇にあるやなぎの大木から、少しだけ新芽の枝をもらってきました。

                                   
        

 

            ろくに面倒をみないのに、オリズルランにも新芽が伸びてきました。

         


                          神さまに感謝!!!






バイリンガル礼拝・バイリンガル聖書スタディ・English Coffee

2016年03月14日 | 学び


   
       バイリンガル礼拝

       日曜日午後4時30分~午後6時

       祈り  
       賛美(歌)
       聖書からのメッセージ

       聖書などは準備があります。
       入場無料(席上献金がありますが自由です。)

       若い信徒さんが多く、フレンドリーな雰囲気です。けれども、
       名前、住所、メルアド、電話番号などを無理にお聞きすることはありません。
          


       バイリンガルバイブルスタディ
       ネイティブスピーカーのアメリカ人はじめ、英語が話せる方は多いですがまったく話せなくても
       大丈夫です。聖書を真面目に学んでみたい方歓迎。     

       


       English Coffee

       英会話教室です。Coffee を飲みながら楽しいひと時をどうぞ。




       子ども英語クラス