ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

遊んでみる

2016年07月15日 | 思い出



    

            雨なので                                  貝殻で
                  
                               遊んでみる


                 

                 どこか遠いところへ
                                 出かけてみる

                         雨なので
                               

         遊んでみる。

         ひとりで、遊んでみる。
         貝殻の底に、遠い日の海を見て
                                                              

                          ひとりで 笑ってみる

                                お腹の底から笑ってみる

                          

                                                               雨なので





冤罪をつくらないために

2016年07月13日 | 聖書



      約束の地に着いてから殺人事件があり、被害者は町の外で発見されたのに、現場を目撃した者が、
      いない場合は、つぎのようにしなさい。(旧約聖書・申命記21章1節)



      まるで、ミステリー小説のような書き出しの聖書箇所です。今日はあえて、
      やさしく意訳で知られるリビングバイブルからの引用です。
      「死体発見!」というのは、いつの時代でも「事件」です。犯人探しが始まります。
      当時のイスラエルの捜査官は、町の長老と裁判官でした。


      まず、長老と裁判官が、死体から最も近い町はどこか調べます。(2節)

      どこかわかったら、その町の長老が、まだ仕事をしたことのない雌の子牛を引いて、(3節)

      どうやら、死体から一番近い町に嫌疑がかかっているようです。
      監視カメラも、指紋やDNA鑑定もなかった時代、有罪の決め手は圧倒的に目撃証言でした。
      目撃者もいなければ、犯人を絞るのはとても難しかったことでしょう。
      嫌疑をかけられた町は、ひょっとして犯人とはなんの関係もないかもしれません。
      けれども、それを争うのではなく、次のような手続きで、免罪してもらうのです。


      渓流の流れる開墾されていない谷間へ行き、そこで子牛の首を折ます。(4節)

      それから、祭司が進み出ます。神様は聖所の仕事や人々を祝福することばかりでなく、
      訴訟が合ったり、事件が起きたりした時に判決を下すためにも、祭司を選ばれたのです。(5節)

      そこで、町の長老たちは子牛の上で手を洗いきよめ、きっぱり宣言します。(6節)
      「被害者に手をかけたのは私たちではありません。私たちが全く知らないうちに事件は起きたのです。(7節)

      神様、どうぞお赦しください。私たちは神様が買い取られた国民です。その私たちに、
      罪のない者を殺した罪を負わせないでください。」(8節)

      こうして、神様の指図どおりに罪悪を取り除きなさい。(9節)
                            ――リビング・バイブルより――
  


       どうしても捜査が不可能なとき、無理矢理に犯人を探索すれば、冤罪者をつくります。
       世の中には、人の力では究明できない事件があるのですから、
       そのときは、無理矢理、犯人捜しをしないで、
       行政と、司法の長が責任をとりなさいというのです。

       責任は、神様に最高の犠牲(ささげ物)をささげて、お詫びをすることです。

       ちなみに、まだ、仕事をしたことのない雌の子牛は犠牲の中では一番高価な動物でした。

       トップのものが責任を取る、それも神様に対して責任を取るといった心構えが、
       すばらしいと思うのです。
       






     

今は昔・「落穂ひろい」

2016年07月12日 | 聖書


  資源ごみを出しに行ったら、普通のトラックと、市のごみ収集車がほとんど並んでやってきました。つい持っていた紙ごみの束と、古着の袋を差し出しました。紙ごみだけ積んでさっさと発車してしまいました。すぐに、青い色の市の収集車がきましたが、紙ごみはあらかたなくなっていました。
  これが、先日テレビで見た「ゴミ泥棒」だと気がつきました。集積場に出されているごみを持ち去るのは「法律違反」であるとのことですが、それが今、横行しているというのです。資源ごみが高く売れるからだそうです。

  ゴミが売れても売れなくても、集積場に出されたごみを持って行くのは、「窃盗」だと随分前に聞いていました。

  これは難しい問題ですね。ゴミなのだから、だれであれ持って行って再利用するのは、よいことのように見えるのです。でも、一定の収集基準を守って市から委託を受けている業者がいるなら、認可を得る手間を省いててっとり早くトラックを横付けして集めて回る業者は違法となるのはしぜんですね。捨てる側でも、「合法的に」ごみを持って行ってもらいたいのです。

  同時に、このような競争は、なんだか切ない気がするのです。これは金メダルの取り合いではありません。新しいゲームを買うための、順番取りのたたかいでもありません。

  私の若いころは、コーラの瓶が売れるというので、集めて回る子供や、集積場で拾った本を古本屋で売る学生がいたものです。

  道端でゴムひもだけを売るおじさんとか、小さな手品を見せて小銭を集める人とか。
  ヤシの寅さんみたいなバナナのたたき売りも楽しかった。

  どのようなあきないに、行政の「認可」が必要だったのか、
  子どもの私にはまるでわからなかったけれど、
  でも、小さな仕事、世の中の隙間をやっと生きるだけの仕事でも、工夫と機転次第で、自立して生きる余地があったような気がします。

            


  
   旧約聖書のおきての中には、「貧しいもののために落穂ひろいをさせる」規定がありました。

   イスラエルの民は全員、神様から嗣業の地(相続地)を分け与えられたのですが、はじめの公平な分配も時がたつと必ず崩れてきて貧富の差が出てきます。
   何らの理由で土地を手放してしまった貧しいものには、
   大麦と小麦の収穫時に、自由に畑に入らせて、「落穂を拾ってもよい」というのです。

   畑の所有者は、落ちた落穂を集めてはならず、また畑を四隅きっちり刈ってはいけなかったのです。
   ぶどうなどの果物や生り物も収穫時に、青いものはそのままにしておかなければなりませんでした。
   貧しいものが後から採れるようにと配慮です。

   

            



        旧約聖書のルツ記は、落穂ひろいが重要な意味を持つ物語です。
        貧しいものに、復活の機会を与える「愛の制度」について書かれています。


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                    落穂ひろいをしなければ生きることのできない二人の未亡人が
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暑い!

2016年07月08日 | 聖書



      「暑い!」
      「より暑い!」

      「もっと暑い!!」
      このところ、完全に、夏に打たれています。
      熱中症は、ひとごとではありません。

      水を飲んで、塩をなめるんですよ!と教えてくれる人多し。
              
      感謝のお証しです。

      きのう「ある教会」をお訪ねしました。
      もと、MCCの会員だったHさん夫妻がはじめられた教会です。
      ご自宅を開放して、神様を宣べ伝えているのです。
      聖書のお話を聞き、祈り、お茶をいただいて失礼したのが、午後1時ごろでした。
      そこからほど近い美容院に行って、髪をカットする予定でした。

      すでにうだる暑さでしたが、美容院から家までは、1キロくらい。
      いつもは散歩気分で歩いていましたから、家までは、歩くつもりでいました。


      午後2時、ギンギンに冷えた美容院を出ると、煮えたぎる暑さです。バスで帰る方法もありますが、
      バス待ちの間、日差しの下にいるのも、恐ろしい感じです。

      そのとき、ケータイが鳴りました。教会のHさんからです。
      「髪のカット終わりました?」
      「ハイ。今終わったばかりです」
      「ちょうどパンを買いに出るので、車でお送りしますよ。店の前で待っていて下さい」
      「それは、ありがとうございます」 
     
      ほどなく、Hさんの車が来て、乗り込みました。
      「助かった~!」
      命拾いをしたとは、このことです。
      じっさい、歩いていたら熱中症になっていたことでしょう。

      

           「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたし私に食べるものを与え、
           わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、
           わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
           わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、
           わたしが牢にいたとき、わたしをたず訪ねてくれたからです。」

           すると、その正しい人たちは答えて言います。
          「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、
           渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
           いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
           また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。

           すると、王は彼らに答えて言います。
           「まことにあなたがたに告げます。あなたがたがこれらのわたしの兄弟たち、
           しかも、もっとも小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
                              (マタイの福音書25章35節~40節)


              註、王(=神)
              マタイ25章は、天の御国における神の裁きについて書かれています。
              「小さな者のひとりにしたのは、わたしにしたのだ」と仰せになる神を恐れ敬う
              事を、身を以て実践される方がいて、「小さな者のひとりにも」神の国の幸いがあるのだと、
              あらためて、実感しました。自分もどこかで、同じようにしたいと願うのです。






俳句

2016年07月02日 | 思い出



         「まあちゃん。こんな俳句書いたんだよ」
         そういって、その人は、薄い印刷物を開いて見せた。
         いくつかの俳句が出ていた。
         俳号があって、ひとり5句くらいあっただろうか。

         農協婦人部では、そのような活動もしているらしい。
         東京からたまに顔を見せる「ヨメ」に、
         その人は、自分の家業以外の活動を見せてくれたのです。
         何気なく、読んだ、俳句の中のひとつが目が留まりました。


             風呂上り 老いたる背中に 扇風機


         お題は扇風機でしたから、ぜんぶ扇風機とついていたのですが、この句だけが
         くっきりと脳裏に刻まれました。

         田舎の家は、広くて、のどかで、土間をはさんだ台所の隅に風呂があって、
         その人は、バスタオルを巻いたくらいで出てきて、囲炉裏のある居間で、
         扇風機に当たっていました。

         その光景がしぜんに重なったのです。
         その人はまだ60代半ばでした。
         いまの人なら絶対に「老いたる背中」なんて自分から言わないでしょうね。

         女学校の同窓会に行くために、長い時間、あれこれと着物を選んで
         「やっぱり服をつくっておけばよかった」とため息をつくような人だったから。

         気にしていたんだよね。わかる!!