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↑内容とはあんまり関係なし・・・カナ
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先日牧師夫妻が我が家に来て下さった。
フアミリーと称して 家族の祈りをしに来てくれはるのを
「出前礼拝」と冗談で言いはる。(笑)
確かに出前だな~~。(笑)
しかし、何年も何年もミニチャペル、神戸礼拝、ファミリーと来て下さって
少しも人数も増やすことも出来なくて申しわけないと思うのですが
牧師は 気にしてはらへんみたいで助かってはいるのですが・・・。
「これは家族のイベントだから」と息子に参加を呼びかけたら
先月から 参加してないようでしている・・・みたいな形で
参加してくれています。(非常にややこしいのだが)
みなさんの祈りがきかれ
ちょっとづつ歩み寄って来てくれているようで感謝です。
夫は最近「ボクは長くない」とか「一年以内には死ぬと思う」
とかばっかり言っているので、牧師にちくってみたら(笑)
「死の用意をすることは素晴らしいことです」
さすが牧師・・・まず相手を受け容れる・・・
すばらし~~\(^O^)/・・・私には中々できないことだ。
「死を考えるということは
今をいかに生きているか、
今をいかに感謝できているかを考えることです」
と言われ、聖書の天国のこと(抽象的だが)が
書かれている個所を示してくれはった。(コリント1の15章42~58)
真に私たちは神の被造物であり チェスの駒の如く
動かされている者であることを、最近、切実に感じる時があります。
今のこの状況 この背景の中におかれていることは
私たちには神の御ワザが現れる為 栄光が現れる為に
必要なものなのであることも分かってきたように思います。
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無駄なものは一切なく、無駄なことはさせられない・・・。
それは 私たちの霊的成長のためであること、必ず益となること
そのことを憶える時 心に平安が訪れます。
夫の心の病も息子のことも娘のことも
「わたし(キリスト)に委ねなさい」といわれることを
信じられなくても 意志で信じることだ、それが信仰・・・といわれました。
私たちは目に見えるものしか触れるものにしか
心を動かされない傾向があるけど
しかし、空気、風はみえないけど 信じられるのですものね。
人間の心は想いと感情と意志で出来ている。
その意志に宣言して言い聞かせるのだそうです。
感情や想いは肉の部分なのですから・・と言われました。
牧師は言われました。
そうする時 我々の中には「平安」と「感謝」が天から流れます。
天国は「平安」なのです。とっても納得でした。
我々クリスチャンは 裸の王様ではなく
確実な真理を身に帯びていることをとても感じています。