昭和40年代初めの頃のお話です。
広島県東部の田舎町・三原市。
海があり、 山があり、 農林水産業や工業が盛んで、 当時は、商店街にも活気が溢れていました。
ここが 私の「故郷」です。
私はこの三原で、 誕生から14歳までという 多感な時期を過ごしました。
私にとって、基本的な人格が形作られた、 大切な場所です。
私の自宅は、 この三原市の本町というところにありました。
小さな山の中腹にへばりつくように 家々が適度な間隔を空けて、立っている住宅街でした。
ご近所には、外国航路の船長さんや 三原郵便局長、 タクシー会社の社長さんなどの邸宅があり、
ちょっとした 「山の手」 の雰囲気を醸し出してはいましたが、
私の家のように、警察官、
他にも 税務署員、国鉄職員など、 公務員や普通の会社員も住んでいたので、
決して『高級住宅地』などというところではありませんでした。
住宅街の真ん中に、 三原中央公園という 子ども向けの憩いの広場がありました。
公園の半分は、グラウンド、 もう半分は、簡易なジャングルジムや滑り台がある芝敷きの広場。
グラウンドとは名ばかりで、 一辺が30mもないような狭あいなスペースだったので、
まさに 「猫の額」という表現がピッタリの広場でした。
そのグラウンドでは、 近隣の 幼稚園児~小学校5・6年生あたりの年代の男の子たちが集い、
野球遊びに興じるのがいつもの光景でした。
野球とは言っても、 小さなスペースで、 しかも幼い子どもたちも交じっていたので、
「三角ベース」という、特殊なルールが採用されていました。
普通の野球では、 本塁 → 一塁 → 二塁 → 三塁 という四角形が形成されていますが、
三角ベースは、 本塁 → 一塁 → 三塁 という3つのベースで構成されています。
特に、人数が10名前後しか集まらない放課後では、有効なスペース活用でもあったわけです。
私が、小学校の4年生だったある日。
私の幼稚園時代の同級生・ナカタニくん、 同じくコーイチくんとその弟・セージくん・・・、
その他、 名前すら知らない 近隣の町内会に住む男の子たちを含めて、 計12名ほどで、
いつもの三角ベースが始まりました。
トミーさん。
おそらく、苗字が 富田さん とか 富岡さん とかだったのでしょう。
トミさん と、呼ぶ子もいれば、 私のように トミーさん と、呼ぶ子もいました。
トミーさんは、 私たちが、賑やかに三角ベースに興じている時、
いつも壁に向かって ひとりで 何かをつぶやきながら 軟式ボールを投げ続けていました。
トミーさんは、 その当時 中学生か、 あるいは高校生だったはずです。
今なお、 彼の大きな体躯が印象に残っています。
そして、 彼は 「知恵おくれ」 でした。
私は、 近所で ただひとり国立の小学校へ通っていたので、
他のみんなが通う市立小学校にある「特殊学級」のことはよくわかりませんでしたが、
幼稚園からの幼なじみである コーイチくんと彼の弟のセージくん、 ナカタニくんたちから、
「トミーさんって、特殊学級の子じゃったんよ。 特殊学級は知恵おくれの教室なんじゃ」
と、教わっていました。
トミーさんは、 私たちが遊ぶ三角ベースには目もくれず、
- おそらく遠慮していたのでしょう -
その日も いつものように 三角ベースのセンター方向あたりで、
ひとり、壁に向かい、 軟式ボールを投げていました。
私たちの打球が、トミーさんを直撃したことも幾度かありました。
「怒るとすげー怖いらしい」という噂がありましたが、
トミーさんは打球が体に当たっても、 ニコニコしながら そのボールを返してくれる優しい人でした。
そして、 また壁に向かって、 何かをつぶやきながら、軟式ボールを投げ始めるのです。
そのトミーさんのつぶやきの内容は、 傍で聞き耳を立てた子によって みんなに明かされました。
「ピッチャー、 第1球を ・・・ 投げました」
「ピッチャー、 第1球を ・・・ 投げました」
「ピッチャー、 第1球を ・・・ 投げました」
プロ野球の実況中継を模して、 彼は 延々と 「第1球」 を投げ続けていたのです。
おそらくは叶わぬであろう、 プロ野球投手になる夢を見ながら、投げ続けていたのかもしれません。
遠くにいると、 ウー ウー としか聴こえない、 ひとりぽっちの実況中継。