観の転回がありました。
以前はこの世を支配する原則は憎しみであり、憎しみを管領するのはサタンであるから、サタンが管領するこの世を憎み、それこそこの世の彼岸にあるパラダイスを欣求していました。
が、それは誤りでありました。
最近、この世を支配する法則は愛であり、愛を管領するのは神様でありますから、この世すなわちパラダイスとの世界観に立ったわけであります。
つまり、彼岸の王国を愛するのではなく、此岸の王国を愛せるようになったのであります。
つまり、私の頭の中で、この世は神の統治下にあるという認識に立ったのであります。
だから私はこの世を憎む必要はない。逆にこの世を憎めば、この世が私に返すものは当然憎しみであるという認識に立ったのであります。
この、観の転回こそが、それこそ冒頭に書いた、自分で掛けた催眠術を自力で解いたという記事につながるわけであります。
かつてはこのような考え方を「きれい事主義」と読んで、徹底的に軽蔑していましたが、禅宗のような厳しさ一本槍で行くより、どこか観音経にあるような優しさみたいなものを信じていかないと、心が折れてしまいます。
かつてのいけもとを知っている人は、「何じゃ、いけもとは日和見ったのか。」と笑うに違いありませんが、若い頃は座禅の厳しさに憧れますが、中高年の域に達してくると、やはり観音経のような優しさに包まれて生かされてきたんだなという反省が出てくるわけであります。
それが観の転回であり、自己催眠が解けた状態という表現になるわけであります。
さて、世界の支配原理が憎しみではなく愛だという世界観に立てば、曲者の狼藉におびえて生きる必要はありません。
実は被害妄想の世界というのは、憎しみの支配する世界であるから、いもしない曲者の横暴や狼藉におびえて生きる世界だったのであります。
その憎しみ支配された世界というのは、自分の心にある誰かに対する憎しみの投影同一視であったと気づくのに時間はかかりませんでした。
余談ですが、憎しみの世界に生きるものに連帯はありません。
自分も裏切り、人も裏切る世界だからであります。
そんな世界観に立てば、向精神薬をいくら投与したところで、功を奏さないことでしょう。
とにかく世界の支配原理、いや、昼の世界の論理が愛であることを受け入れたら、根底にあるterrorが消えたのです。
同じことの繰り返しが多い文章ではありましたが、それが大事なことなのであります。
憎悪の哲学。
それは本当に恐ろしいサタンの哲学です。
以上、管内一方面から十方面向けのいけもと。