我々はケノン(空虚)の中を運動するアトム(原子)。
そのアトムとしての私がどんなものか知らないが、きっとモナド(単子)のようなものなのだろう。
モナドには窓がない。
ライプニッツの説を借りれば、モナドが勝手に動き回って、現実世界において、最適な結果をもたらすらしい。
予定調和というやつだ。
オブジェクト指向の考え方を借りてこよう。
私はオブジェクトである。
そして私の書いているブログを通じて、読者というオブジェクトにメッセージを送っている。
そして、私とは別に存在するオブジェクトが、私のメッセージで、いろいろな感想を持ち、何らかのリアクションを行うわけである。
が、いけもとのメッセージが、読者を変えることはできない。
なぜなら、オブジェクト同士は、メッセージを交換して何らかの動作を行わせることは可能であるが、お互いにオブジェクトの定義内容を書き換えることはできないからである。
まさに、モナドには窓がない。
それを如実に表しているといけもとは感じる。
さて、互いにメッセージを送り合って、何らかの動作を行わせることは可能であるが、書き換えることはできないのが、アトムやモナドの宿命だとしたら、人を変えようとする試みが、いかに無駄なものかよく理解できる。
イデオロギーを信奉して、自分や相手をよりマシな存在にしようする試みは無駄な努力なのだろうかと思った次第である。
バイブルの創世記第一章で、エロヒムが万物を甚だ良しと言っているのであるから、それにイチャモンを付けて、人を変えようとする試みは、傲慢極まりない試みなのであろう。
そんなことを思ったいけもとであった。