小室直樹氏が本に面白いことを書いている。
因果律の世界では、ある結果を求めるためには、それこそ将棋のように、一手一手の積み重ねが必要であるが、予定説の世界では、ゴールを設定すれば、何をしてもそのゴールに行き着くという。
我々日本人は、因果律の世界は慣れ親しんでいるが、どうも予定説というものは、理解に苦しむらしい。
キリスト教の考えで行けば、神が命の書とやらにその名前を書いたら、たとえその人がどんな悪事を働こうとも、凄まじい奇跡のオンパレードを行って、その人を救うそうだ。
その奇蹟のアクメが、イエスの十字架である。
とはいえ、私は悪行三昧を人に勧めているわけではないが。
んで、イエスを救い主と心で信じて、口で告白すれば救われるというが、それだって、予め、神が定めたことであるから、いくら神父や牧師そして信者が束になって祈ろうが、神が定めたことであるから、人がいくら頑張っても無駄である。
予定説の信仰に立ってしまえば、出てくる人生観はケ・セラ・セラである。
信仰という船に乗ってしまえば、何をどうしようが、川が海に流れ着くように、パラダイスという海にたどり着くのであるから、人はただ、安心立命に立って、日々を生きればいいわけだ。
たしかにそうだ。
何をしても死後の涅槃という絶対幸福にたどり着くのであるから、日常の四苦八苦など、とるに足らないことなのかもしれない。
そうそう、この世で一番優れた神学者はサタンであるそうだ。
ただサタンとその一味は、神学を救いのためではなく、信仰を破壊するために用いるそうだ。
信仰は深ければ、いくら口のうまいやつに言い負かされたって、改宗することはありえない。そんなわけで、人のうちに押しかけて人を本来の信仰から引き離す悪知識と呼ばれる連中は、サタンの氏子、魔の眷属なのであろう。
考えてみれば、産土の神が「氏子同士仲良くせい!」と仰せなのに、やれ、「某々教の信者はけしからん。」とか「隣の誰兵衛はけしからん。」などとやるのは、自分が産土の神に逆らう魔の氏子や眷属になったことを自分で自白しているようなものだ。
呵々。
そんなことを思った、いけもとであった。