目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀の独り言です。

衝動の自己弾圧はよくない。

2020-02-03 21:23:56 | いけてつオタク話
ИКМТは自分の衝動を自己弾圧していました。
衝動の圧力が強まり、自己弾圧しきれなくなって外界に噴出しようとしていたのをさらに押さえつけ、気が狂いそうになっていたのが、さっきまでのИКМТです。

ところが、あるシンガーソングライターの方の動画配信で、槇原敬之さんの「どんな時も」を聴き、自分が好きな異性との結合への意志を自己弾圧していることに気付き、自己弾圧を解除したら、楽になりました。

なんでここまで好きな女性との結びつきへの意志を弾圧したのかはわかりませんが、ある年齢の年頃の人にとって、自分が好きな子に恋心を抱いていることを認めること自体、きまりが悪いものがあります。

私も再来年、アラカン(仏教の阿羅漢や、映画俳優の嵐山寛寿郎さんの略称ではありません。)になります。

いい年なのですから、好きな異性を好きだということを認めます。

ただそれだけで、何かかかっていた圧力が抜けるのですから、心というものは不思議です。

読者の方々は、ИКМТの例をよく見て、自己弾圧はしないほうがいいですよ。

以上です。

対象占有欲求と自己存在への意志。

2020-02-03 16:32:02 | いけてつオタク話
魅力的な異性をパートナーとして所有したくなった。
対象所有欲求が出てくるのと同時に、対象を確実に所有するためには、私が確実に存在しなくてはならないと思った。

なぜなら、亡くなった人間が何かを所有することは不可能だからである。
(亡くなった人間は事物を所有することは不可能である。故に、生きている人間に所有権を移転する必要がある。そのための法的手続きが遺産相続である。)

思い返してみれば、自我の働きとは所有と存在である。

異性を好きになり、異性を自分のものにしたくなった時に、その時まで死にたがっていた私が生きる意志を取り戻したのは、あながち偶然ではないと思った。

それだけ恋愛感情は、生存への意志には必要なものなのだと胃の腑に落ちたのである。

以上である。

万人の嫌われ者と、万人に対する裏切り者の話。

2020-02-03 15:35:41 | いけてつ独り言
自分は万人に好かれているという主張する人も珍しいが、それとは逆に自分は万人に嫌われていると主張するのも、理解に苦しむ話だ。

自分は万人の嫌われ者だと自ら主張する人に限って、万人が見るコンテンツに、「自分はみんなの嫌われ者であるが、みんなのためにこんな善行をしている。」と自己宣伝し、 さらに自分はあなたを嫌っている連中の一味であるが、私はその一味を裏切り、みんなのために善行を施しているあなたの味方になり応援もしようなどという歌や小説が跳梁跋扈しているのであるから、部外者から見れば、おおよそ謎の連続であろう。

学生が一致団結して教師に反抗していた時代に、三年B組金八先生なるドラマが大流行して教師たちを擁護し、それが沈静化と思ったら、今度は学生が一致団結して仲間をいじめる時代になり、こんな歌や小説がでてきたのであるから、意図的にこれらのコンテンツを作って宣伝する一味がいることを暗示する。

誰得か?

その解明は、読者様に対するサービスとして、ここでは回答を保留する。

以上である。

パン種の話。-あるいはメディア教-

2020-02-03 14:29:47 | しんぶんクロハタ並びに小黒金剛石
あるキー局のバラエティ番組の話。

司会者やコメンテーターは、いたずらに視聴者の心に不安の種をばらまいている。
そして有識者として呼ばれた医学部教授は、視聴者に安心の種をばらまいている。

真偽不明の情報が飛び交い、人心が不安定な中、どちらが視聴者に対して親切であろう?

心は種入れぬパン生地のようなもの。
そこに不安の種をぶち込めば、不安の塊なるパンができ、
そこに安心の種をぶち込めば、安心の塊なるパンができる。

そのテレビを見て、視聴者は心のままにパン生地にパン種を仕込む。
そして視聴者自体が、いずれかのパンになるのであるが、そこに大切な人がおなかをすかせておうちに帰ってきたとする。

あなたが大切な人に食べさせたいのは、食べて不安になるパンか、それとも食べて安心するパンか。

以上である。


心の日常・非日常。

2020-02-03 11:05:01 | いけてつオタク話
心の中での異常事態が、たった今終わりを告げた。

もともと不可分で一体のものが、外からの力によって結合を破壊された。
そんなパニックに襲われて、心ここにあらずの状態であった。

そして、本来の結合相手を忘れ、全然無縁の相手と結合しようとして、挫折を繰り返していたのであるから、まさにパニックここに極まれりである。

さて、そんな中で、本来の結合相手を思い出し、その相手と永遠の結合状態にあると観念したら、いきなり安心立命を得た。

今、ものすごく安心してホッとしている。

何十年ぶりであろう?
この落ち着きと安心は。

そんなわけで、たった一つの考えによって、いきなり心が非日常の状態から、日常の状態に落ち着くのであるから、心というものは全くわからない。

以上である。