今日は一日中休みだったので、フルマラソンの予行演習でもしようかと思い立った。
マザーハウスの山口さんの講演会にも興味あったが、闇の子供たちのDVDを見た後だったんで、面倒になって自分の予定を優先した。
そういえば昨日からDVDをたくさん借りてみている。
駐在さんとの700日戦争のやつと
解夏
男はソレを我慢できない
闇の子供たち
ひとまず走れ(韓国映画)
中でも、
『男はソレを我慢できない』
と
『闇の子供たち』
を一緒に借りて連続してみていた自分に、自分らしさを感じた。
闇の子供たち は原作は読んでいたが、映像化するとどうなるのかが気になって見てみた。これは東南アジアにおける児童買春の話で、文章だけでもリアルでグロいかった。映像では原作よりかは放送レベルまで下げられて、カットされている部分が多かったが、それでも人にショックを与えるには十分な映像作品だった。
男はソレを我慢できない は竹中直人主演の、ソープランド建設にまつわる話で、性欲をパロディで表した作品。町のためにソープランド建設反対をしようとするが、性欲に負けて飲み込まれてしまうという話。
お互いが補色の関係のように、混ぜ合わせてしまうとどす黒い色になってしまう。
その二つのドロドロとした世界観。ぐるぐる回る価値観。何が正しいかが分からなくなる倫理観。矛盾。もどかしさ。
それがたまらない。
考えれば考えるほど自分の中での正義が定まらない。
たとえば、自分がフェアトレードの考え方がすばらしいと思ってその活動推進をやっていたとしよう。
『この活動はすばらしいから皆さんもやってください』と周囲に呼びかける。
そうしているうちに、その正しい活動をしている【私】自身も正しいと錯覚してしまう。【私】が正義だと。
いつから【私】はそんなに偉くなったんだろう??
もし、その活動が仕事ならば俺はやれる。
多少疑問が起こっても「これは仕事だから」と割り切れる。
どんなに環境破壊が起ころうと、世界の裏側で人が死んでようと、まずは自分の明日の生活が大事だから。
ただ、自覚しておきたいのは、間接的に僕は人を殺しているということ。
この感覚を愛読しているスカイクロラシリーズの中で面白い例えで書いてあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ボールの穴から離れた僕の指は、
今日の午後、
二人の人間の命を消したのと同じ指なのだ。
僕はその指で、
ハンバーガーも食べるし、
コーラの紙コップも掴む。
こういう偶然が許せない人間もきっといるだろう。
でも、
僕には逆に、その理屈は理解できない。
ボーリング場のシートと同じグラスファイバが、ロケット弾の翼に使われている。
花火大会と爆撃は、ほぼ同じ物理現象だ。自分が直接手渡さなくても、お金は社会を循環して、どこかで兵器の取引に使われる。人を殺すための製品も部品も、必ずしも死を望む人たちが作っているわけではない。
意識しなくても、
誰もが、どこかで、他人を殺している。
押しくら饅頭をして、誰が押し出されるのか・・・・。その被害者に直接触れていなくても、みんなで押したことには変わりないのだ。
私は見なかった、私は触らなかった。
私はただ、自分が押し出されないように踏ん張っただけです。
それで言い訳になるだろうか?
僕は、それは違うと思う。
(スカイクロラ P246)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
キリスト教では、人は生まれながらに罪人だという考え方がある。
それに近いのかもしれない。
罪悪感を感じながら生きていく。
それが、俺の生きるテーマの一つでもある。
ただ、本当に自分の感じているものが罪なのか?という疑問も持つことがある。
動物は生きるために動植物を殺して食べる。
縄張りに入ってきたら、同じ動物でも攻撃する。
その動物たちには罪悪感はないだろう。
罪の意識は人間にしかない。
そもそも殺生が罪であるという価値観や正義すら人間が作り出した思想。
と、考えると罪悪感を感じるのが馬鹿らしく思えてくるときがある。
ただ、それは俺自身が許さない。
俺は俺にもっと苦しんで悩む人生を送るようにしてもらいたいという要望を持っている。
それも、罪悪感からか・・・?
やべぇ・・・ぐるぐるしてきた。
ということで、走ることにした。
フルマラソンの距離。
今は地図の道路から距離を算出するサイトがあってマラソンコース作りには非常に便利だ。
だいたい41キロほどのコースを決めて走ることにした。
12時スタート。本日は晴天だが、気温は適温。
さらに、筋肉の超回復のタイミングにもピッタリ。
先週、海まで走って約23キロほどのランニングでの筋肉痛が治ったばかりだった。
食事後4時間は経った。
水分補給のためのお金も持った。
MP3プレイヤーやらも準備万端で40キロ強のランニングに挑んだ。
思えば、長距離が得意と思っていた割には実際に走った経験のあるのは15キロそこそこで40キロは、その2.6倍やろ。くらいの感覚しかなかった。
先週も20キロそこそこ走っていたので、その2倍くらい・・・。という考えしかなかった。
その考えが結構甘いと思ったのは20キロ地点。
先週は20キロでゴールして20キロの先には休息という天国が待っていたが。
強は20キロ地点では、これから今まで距離がもう一回あるという地獄が待っていた。
俺の今日の体の反応としては、
10キロで疲れたという悲鳴を上げる。
20キロで、もう走れないと足が動かなくなる。
30キロで、痛みが発生する
という感じだった。
体力的には、もう少しいけるかなと思ったが、下半身の筋肉と精神力がもうダメだった。
悔しいが、コースを外れて家へ向かった。
だけど上半身は全然元気で、今からでもボクシングができるくらいの力の余り方をしていた。
昔から下半身には自信があった。
持久走もベスト10には入っていたし、腕立てよりも腹筋のほうが何倍もできた。
ただ、今日で自分の中の「下半身が強い」というレベルが分かった。
距離にして37キロ。
残り5キロを走るには精神力か筋力が足りなかった。
10日後に控えたフルマラソンでは精神力が鍵だろう。
どこまで見栄と羞恥心を発揮できるか。
見栄の使いどころをマスターせなあかんなぁ・・・。
マザーハウスの山口さんの講演会にも興味あったが、闇の子供たちのDVDを見た後だったんで、面倒になって自分の予定を優先した。
そういえば昨日からDVDをたくさん借りてみている。
駐在さんとの700日戦争のやつと
解夏
男はソレを我慢できない
闇の子供たち
ひとまず走れ(韓国映画)
中でも、
『男はソレを我慢できない』
と
『闇の子供たち』
を一緒に借りて連続してみていた自分に、自分らしさを感じた。
闇の子供たち は原作は読んでいたが、映像化するとどうなるのかが気になって見てみた。これは東南アジアにおける児童買春の話で、文章だけでもリアルでグロいかった。映像では原作よりかは放送レベルまで下げられて、カットされている部分が多かったが、それでも人にショックを与えるには十分な映像作品だった。
男はソレを我慢できない は竹中直人主演の、ソープランド建設にまつわる話で、性欲をパロディで表した作品。町のためにソープランド建設反対をしようとするが、性欲に負けて飲み込まれてしまうという話。
お互いが補色の関係のように、混ぜ合わせてしまうとどす黒い色になってしまう。
その二つのドロドロとした世界観。ぐるぐる回る価値観。何が正しいかが分からなくなる倫理観。矛盾。もどかしさ。
それがたまらない。
考えれば考えるほど自分の中での正義が定まらない。
たとえば、自分がフェアトレードの考え方がすばらしいと思ってその活動推進をやっていたとしよう。
『この活動はすばらしいから皆さんもやってください』と周囲に呼びかける。
そうしているうちに、その正しい活動をしている【私】自身も正しいと錯覚してしまう。【私】が正義だと。
いつから【私】はそんなに偉くなったんだろう??
もし、その活動が仕事ならば俺はやれる。
多少疑問が起こっても「これは仕事だから」と割り切れる。
どんなに環境破壊が起ころうと、世界の裏側で人が死んでようと、まずは自分の明日の生活が大事だから。
ただ、自覚しておきたいのは、間接的に僕は人を殺しているということ。
この感覚を愛読しているスカイクロラシリーズの中で面白い例えで書いてあった。
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ボールの穴から離れた僕の指は、
今日の午後、
二人の人間の命を消したのと同じ指なのだ。
僕はその指で、
ハンバーガーも食べるし、
コーラの紙コップも掴む。
こういう偶然が許せない人間もきっといるだろう。
でも、
僕には逆に、その理屈は理解できない。
ボーリング場のシートと同じグラスファイバが、ロケット弾の翼に使われている。
花火大会と爆撃は、ほぼ同じ物理現象だ。自分が直接手渡さなくても、お金は社会を循環して、どこかで兵器の取引に使われる。人を殺すための製品も部品も、必ずしも死を望む人たちが作っているわけではない。
意識しなくても、
誰もが、どこかで、他人を殺している。
押しくら饅頭をして、誰が押し出されるのか・・・・。その被害者に直接触れていなくても、みんなで押したことには変わりないのだ。
私は見なかった、私は触らなかった。
私はただ、自分が押し出されないように踏ん張っただけです。
それで言い訳になるだろうか?
僕は、それは違うと思う。
(スカイクロラ P246)
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キリスト教では、人は生まれながらに罪人だという考え方がある。
それに近いのかもしれない。
罪悪感を感じながら生きていく。
それが、俺の生きるテーマの一つでもある。
ただ、本当に自分の感じているものが罪なのか?という疑問も持つことがある。
動物は生きるために動植物を殺して食べる。
縄張りに入ってきたら、同じ動物でも攻撃する。
その動物たちには罪悪感はないだろう。
罪の意識は人間にしかない。
そもそも殺生が罪であるという価値観や正義すら人間が作り出した思想。
と、考えると罪悪感を感じるのが馬鹿らしく思えてくるときがある。
ただ、それは俺自身が許さない。
俺は俺にもっと苦しんで悩む人生を送るようにしてもらいたいという要望を持っている。
それも、罪悪感からか・・・?
やべぇ・・・ぐるぐるしてきた。
ということで、走ることにした。
フルマラソンの距離。
今は地図の道路から距離を算出するサイトがあってマラソンコース作りには非常に便利だ。
だいたい41キロほどのコースを決めて走ることにした。
12時スタート。本日は晴天だが、気温は適温。
さらに、筋肉の超回復のタイミングにもピッタリ。
先週、海まで走って約23キロほどのランニングでの筋肉痛が治ったばかりだった。
食事後4時間は経った。
水分補給のためのお金も持った。
MP3プレイヤーやらも準備万端で40キロ強のランニングに挑んだ。
思えば、長距離が得意と思っていた割には実際に走った経験のあるのは15キロそこそこで40キロは、その2.6倍やろ。くらいの感覚しかなかった。
先週も20キロそこそこ走っていたので、その2倍くらい・・・。という考えしかなかった。
その考えが結構甘いと思ったのは20キロ地点。
先週は20キロでゴールして20キロの先には休息という天国が待っていたが。
強は20キロ地点では、これから今まで距離がもう一回あるという地獄が待っていた。
俺の今日の体の反応としては、
10キロで疲れたという悲鳴を上げる。
20キロで、もう走れないと足が動かなくなる。
30キロで、痛みが発生する
という感じだった。
体力的には、もう少しいけるかなと思ったが、下半身の筋肉と精神力がもうダメだった。
悔しいが、コースを外れて家へ向かった。
だけど上半身は全然元気で、今からでもボクシングができるくらいの力の余り方をしていた。
昔から下半身には自信があった。
持久走もベスト10には入っていたし、腕立てよりも腹筋のほうが何倍もできた。
ただ、今日で自分の中の「下半身が強い」というレベルが分かった。
距離にして37キロ。
残り5キロを走るには精神力か筋力が足りなかった。
10日後に控えたフルマラソンでは精神力が鍵だろう。
どこまで見栄と羞恥心を発揮できるか。
見栄の使いどころをマスターせなあかんなぁ・・・。