ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○なるほどなあ、と思うことがあったので。

2011-09-19 11:40:47 | 哲学
○なるほどなあ、と思うことがあったので。

昨今は、読書に対しても、拘りがまったくなくなった。拘りの実体とは、ご大層な根拠もなく、ただ、自分のこれまでの感性に基づいた、作品に知性(無論、こういう言葉も妥当だとは思えない)が感じられるかどうか、という一点で読むべきものを選別してきたように思う。しかし、このような考え方の根底にあるものは、自分の過去の価値観にすがり付いているだけの、その意味では勇気なき保守主義者になり下がった、体たらくな意識なのである。これでは、人生、おもしろきことを取りこぼす。ヤバいと感じていたので、敢えてこれまで食指を伸ばさなかった作家たちの作品を読むことにしてから、2,3年も経つだろうか。実行してみると、これが新たな発見の連続みたいなもので、またまた、興味の幅が広がった。喜ばしい限り。生きているのもまんざらではないな、とつくづくと思う。船戸与一もごく最近手にとるようになった作家のひとりだ。しかし、この人がなかなかいいわけで、何冊かまだ読んでいない文庫本が本棚にあるが、いま、読んでいるのは、「新宿・夏の死」という短編集。9月も半ばだというのに、クソ暑い今年の夏に読むには、うってつけのお題だ。それにしても、短編集というと何となく薄っぺらい本を想像しがちだが、これが寝っ転がって読むには腕が痛くなるほどの分厚い文庫本だ。一つ一つの小説の出来は至極いい。最初の短編が「夏の黄昏」だが、ここに登場する、人生の晩年に到達した男女の再会の中で交わされた言葉は身に沁みる。こうだ。「おたがいにもう滅びは近い。その滅びに向かって一緒に闇のなかに溶けていきたいのです。」という女性が残した手紙の中の一節。胸に沁み入る。後ろ向きな発想だとは思わない。むしろ、遠からず押し寄せてくる己れの死を受容する思想を構築し、すべての終焉たる死すらも、生きるためのエナジーのファクターにしようとする強い意思を感じるのは、果たして僕だけか?

たぶん、大抵の人たちが畏れる死とは、観念的な絶対無の感覚ではあるにしても、そもそも生きている人間にとって、無という観念を実感する術がない。たとえば、簡単にこんなふうに表現する人がいる。曰く、「自分の意識が無くなること。自分の存在が消失すること」等々。しかし、人がこのように無を表現するとき、すでに矛盾が生じている。つまり、自分の意識が無い状態を、生きている意思で想像しているだけのことだからである。しかし、いま、ここに、絶対的に無いことを想定することが、原理的に不可能なのである。そうであれば、死を具象化するしかなくなる。たとえば、何かの映像で観た、臨終に至る人間の苦悶の表情。身近な人が死にゆくときの、苦しげで切なげな苦痛の叫び。しかし、死にゆく人間に用意された、死の身体的苦痛とは、裏返った生への希求を喚起させるためのものだ。人間の本性とは、たぶんこういうものだ、と僕は思う。だからこそ、自死などは出来ることなら避けた方がいい。自己の体内に生への欲動が組み込まれているのである。生きようとすれば、確実に生き抜けるはずなのだ。

「滅びに向かって一緒に闇のなかに溶けていきたい」という思念は、日本的な愛の究極の姿ではなかろうか。人生の闇の中に溶け込むには、老いを生き切るそれ相応の覚悟と勇気が必要だ。こういう考え方の上に立てば、無意味な延命など馬鹿げたものに感じることになるだろう。あるがままに生を生き、あるがままに死を死する。それでよいではないか。その意味で、メメント・モリ!(死を想え!)と云う言葉が生への希求と通底している、とも僕は思うのである。いかがなものでしょうか?

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長野安晃

○人間関係がむなしく感じられるのはねえ。

2011-09-05 09:44:19 | 哲学
○人間関係がむなしく感じられるのはねえ。

何気なく生きていると、ついつい自分自身の実像すら忘却することがある。怖いことだと思う。人は社会生活というか、日常生活を生きていく限りにおいては、それなりに、誰もがその人となりを繕うことが出来る。一般に人間関係と云われるものは、厳しく云うと、創られた自分の像、他者の像との間の諒解事項の総体ということが出来るのではなかろうか。職場の人間関係、ご近所の人間関係、あるいは家庭生活等々で、それがうまくいかないという悩みを抱いている人は少なくないが、そういう人はどちらかと云うと人柄がよろしいのである。どういういう意味でか?無論、他者に対する取り繕いをせず、人間関係の距離感をなくしたいと願っている人たち、と云う意味においてである。

人間関係において必然的に生じる距離感に身悶えている人たちの気持ちはよく理解出来る。何故なら、これを書いている僕自身がそういうタイプの人間の部類に属するからである。何故、人はもっと心を開けないのだろうか?という煩悶が常に頭の中を掠める。自分が心開けば開くほど、他者は自分に対してなにほどかの疎ましさを感じていると思えるとき、絶望感とも、孤独感とも、孤立感とも云える、この世界にひとりぼっちで茫然と立ちすくんでいる自分の姿に気づく。それは敢えて言えば茫然自失の状況である。絶望の淵にいる気がするし、生きていたいとも思わなくなる瞬間だ。もはや自分の人生は終わったのか、とも思ってしまう。じゃあ、何故生き続けているんだ?という問いに対して答える義務があるかも知れないから、僕なりの考えを書き記しておかねばと思う。

僕は、文学や哲学やその他、いろいろなジャンルの物語性に心ひかれると書いてきた。が、殆ど、それらの存在意義について深く考えたことがなかったように思うのである。文学も哲学も絵画も音楽も、その他のあらゆる芸術と総称されるすべての作品に描かれて、長き年月に耐えて、現代に通じる価値を備えているその本質とはいったい何か?と自問してみたのである。

そもそも芸術作品を生み出す人々こそ、日常生活者の悲哀を舐めつくしているのではなかろうか?自己の心の奥底をひた隠すことによって危うく成立しているこの世界は、すべからく断片的であり、その場限りの価値観によって、あらゆる物事の存在理由が変質してしまうような曖昧な磁場である。だからこそ、創作者たちは、各々の才能と力量に応じて、人間の存在理由の強固な普遍化を作品の根底に据えたのではなかろうか?日常生活を四苦八苦しながら生きるしか能のない凡庸な人間ですら、好みに従って何がしかの芸術に触れたいと願う。それこそが、人間の、光り輝くような生が呼び覚まされようとしている瞬間に他ならない、と僕は思う。

生きることがつまらないという感覚は、忌避されるべきものではない。それは、生の本質的な意味を模索しようとする大切な欲動の現れであるからだ。人間関係改善のための多くの啓発書が意味をなさないのは、それらがすべからくHow to本に過ぎず、生の普遍性とは無縁のものだからである。敢えて言うならば、啓発本や占いや血液型診断などは、底流は同じものだ。誰にでも通じるようでいて、実は誰の生の真実をも捉えていない。こんなところに救済の糸口などあり得ようはずがない。

人間関係がむなしく感じられるのはね、それは普遍的な存在物の介在によって、自分の虚像が剥がされるときなんだから、僕に言わせると、歓迎すべき瞬間かも知れない。そんな観想を抱きながら、昨今僕は生きているのです。

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長野安晃

○僕の裡なる「自由」という概念についての雑多な観想。

2011-09-02 00:14:30 | 哲学
○僕の裡なる「自由」という概念についての雑多な観想。

日本人にとって、自由とはそもそも愛などと同様に、明治以降に西欧から入ってきた概念ではないのでしょうか。いま、この時代に自由とは何ぞや?と自問すれば分かりますが、自由と口にした途端に、あるいは想念としての自由を想い描いた、その瞬時に自由の概念がぼやけてきます。もっと言うならば、自由を想起した途端に自由と反対概念の社会通念上の規制のあれこれが頭の中を掠めます。自由の概念を突きつめていけば、当然のことながらその行き着く果ての概念とはアナーキズムです。政治的には、無政府主義と訳されています。無政府主義とは、人間集団が生きていく上で必要な、すべての規制がない状態であると錯誤している方々が殆どではないでしょうか。しかし、無政府主義とは、決して人間集団に所属している個々の人間が好き勝手に物を言い、気儘、我儘放題に行動するというような俗説に貶められるような思想ではありません。

アナーキズムとは、人間にとっての自由の概念に対して、どのような思想にも勝る鋭敏な精神性を有している考え方です。既述しましたが、そもそも自由とは、自由である瞬時に自己拘束の概念が現れ出てくるような、やっかいな思想です。世界中の誰もがきちんと自由の概念を整理出来てはいないのです。英語だって、自由をfreedomとlibertyとに使い分けます。無論、理念的な整理が出来た上での使い分けでは決してありません。現代社会における政治経済社会において自由を語るならば、それはfreedomでしかありません。freedomには必ず義務(duty)というファクターが絡みついています。現代社会においては、特にアメリカ社会においては、libertyという言葉は死語に近い扱いになっているのではないでしょうか。たとえば、このlibertyは1960年代のアメリカで、flower peopleたちが、ウッドストックに集合し、あるいは、公民権運動の過程で、かつての差別主義的な権威などすべてごめんだ!という自己解放の雄叫びそのものでした。この状況を言葉にすれば、それがlibertyだったのです。つまりlibertyとアナーキズムとは思想的には底で深く繋がった考え方です。オバマ大統領が、自由という言葉をスローガン的に使うとしても、決してlibertyとは言わず、freedomと言うでしょう。その意味においても、現代は、libertyとは最もかけ離れてしまった時代、と規定することが出来るのではないかと僕は思います。

さて、僕の考える自由とは、当然にlibertyに関わることです。換言すれば、libertyの復権です。それを僕は仮にいま、自由と称することにします。何度も公表していますが、僕は政治思想上はアナーキストです。しかし、アナーキズムは机上の空論ではなく、かつ、また、政治的な無責任主義とはまったく違います。敢えて言うならば、アナーキストは、政治には深い関心を持つ人間です。民主主義という名のもとに隠微に遂行される富の独占とか、社会的身分の実質的世襲などに対して、鋭敏な批判力を持っています。机上の空論を振りかざさないのですから、アナーキストは、いかなる意味でも思想的に柔軟です。だから、当然のことですが、考え方の異なる人々とも協調出来ることは大いに積極的に実行します。その意味において、民主的な選挙制度を否定しません。

僕の裡なる自由の希求の欲動は、常に停滞することのない、妥協のないものです。なぜなら、自由とは、すでに述べましたが、自由を固定的に考えた途端に、自由とは真逆の、拘束の理念でがんじがらめにされてしまう宿命を背負っているからです。その意味で、アナーキストは、常に思想的には躍動的です。止まるところを知らないのです。泳ぐことを止めたら死んでしまう魚のごときものです。思念的な安住は、アナーキストにとっては、死を意味します。思想の死、すなわち自由の死です。東洋的思想における悟りとか、諦念という概念は、従って僕には無縁のものです。そんなものは必要ない。僕にとって絶対不可欠なこと。それは、自由への希求です。他者を受容する心の容量を持った、自由への憧憬です。こんなことを考えながら、僕はこれからも生き続けていくつもりでいます。

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長野安晃

○心の闇を凝視しなければ、ね。

2011-08-26 18:21:13 | 哲学
○心の闇を凝視しなければ、ね。

お笑いタレントの島田紳助が暴力団との癒着問題で、引退したのだ、という。一説によると、警察はこの9月から暴力団に対する新たな厳しい取り締まり規制を実行するに際して、タレントと暴力団との関係性を取り締まりの目玉にして、その効果を狙うのだ、ともいう。島田本人も、吉本興業も、その真実が暴かれる前に、島田の引退劇で、当面やり玉にあげられそうな問題を回避しようとしたのだろう、という噂が出ているらしい。

その真偽のほどはともかくも、なぜ人間社会に暴力団という、あるいはそれ以外のあらゆる反社会的組織が存在する土壌があるのかということに思いを馳せる必要があるように思う。現代という時代背景からすれば、日本においては、社会とは民主主義社会である。無論時代背景、歴史的、時代的背景が異なれば、社会のありようなどは、また、その中で通用する常識・良識の理念は、極端に言うと、真逆にもなり得る代物である。つまりは、社会正義などという理念を振り回す人々がいるが、社会正義という絶対的な理念はない、ということを識るべきだ。無論、僕は、現代日本社会におけるヤクザ組織を認めているのではない。ヤクザ組織ほど銭金に執着するところはないと言っても過言ではないだろう。そういう意味では、任侠道などという概念は、銭金に小汚い言動を隠蔽するヤクザの側の都合のよい思想だとも思っているくらいだから。

僕が言いたいのは、ヤクザ組織を締め出す法律や条例をいくらつくったところで、ヤクザ組織を根絶することなど出来はしない、ということに自覚的であれ、と云いたいだけである。そもそも、ヤクザとは何か?ヤクザという存在を社会悪などというひと言で片付けられるのか?ならば、ヤクザが成立するための資金源は、なぜ断つことが出来ないのだろう?ヤクザの資金源がどこにあるのか?それは、善良を気どり、そのことに一片の疑いも差し挟まない人々が、己れの心に闇を抱えている限り、ヤクザ組織というものはなくなりはしないということに他ならない。心の鬱憤をはらすために存在する、この社会のあらゆる善良な?人々が目くじらを立てるもの、風俗にしろ、ギャンブルにしろ、関わる人間の感性によって、合法と違法との境目の定かでない領域。このような人間の心性がある限り、ヤクザは、あるいは世界規模のマフィアは存在し得るのである。ともあれ、風俗店は許可され営業されている。ギャンブルもしかり。その中で、いったいどのような違法的行為が行われているか、誰にだって想定出来るだろう。日本の公営ギャンブルは諸外国に比べてもすでに多すぎるのに、さらに東京や大阪の首長は、経済効果を狙って公営カジノをどうしてもつくりたくてやきもきしている。ヤクザを取り締まる側が己れの鬱屈した精神をはらすために、ヤクザの資金を増やしていることも当然にある。街の声と称して、マスコミが訳知り顔でインタビューし、また、インタビューを受ける側もいかにも正義漢を気どってものを言う。しかし、平凡な市井の人間がどれだけ心の闇と引き換えにして、ヤクザに資金を投げ与えているのかに、もっと、もっと鋭敏であれ、と言いたい。表層的ヒューマニズムや偽善的な言動を発する人々が、彼らの言うところの社会悪を根絶したということを聞いたことがない。バカを見るのは、間接的にでも、ヤクザと関わった多くの市井の人間の方だろうとは思う。無論、自分が蒔いた種ではあるだろうし、いい加減に自己の裡なる闇を検証もすることなく、怠け暮らしているツケがまわるだけのことだろうけれど。

島田紳助は、僕の嫌いなタレントだ。理由はいくつもあるが、ここに書く必要を感じないので、略す。また、島田との関係性深き、もはや広域指定暴力団の相談役となり下がった元プロボクシング世界チャンピョンの渡辺二郎も、どうという意味を持たない存在だけれど、僕がひっかかるのは、彼らのような人間を、括弧つきの善意の人間たちが、ヒステリックに悪しき存在としてスケープゴートにすることの危険性を指摘しておきたい。善意を気どる人間集団のヒステリー症状は、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」に明らかにされているように、人間がファシズムに盲従していく精神的土壌を生み出す可能性に満ちているからである。

今回の出来事で、島田紳助という一個のお笑いタレントや、渡辺二郎というヤクザに固有の問題として葬り去らぬこと。これが大切だと僕は思う。人の心の闇について、想いを巡らせる機会にすべきこと。僕はこのことが大事だと思う。一人でも多くの方がエーリッヒ・フロムを再読されんことを願う。

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長野安晃

○考え方を変えること、生き方を変えること、そんなに難しいことではない、と思います。

2011-08-24 11:53:32 | 哲学
○考え方を変えること、生き方を変えること、そんなに難しいことではない、と思います。

考え方を変えるというと、よく僕たちが陥る間違いは、自分が後生大事に抱えてきた考え方に問題が生じたとき、新しいそれに出会って、あたかも清涼飲料水のごとくに感じられ、既成の価値観に溜まった澱のようなものをいっときでも吹き飛ばしてくれる心地よさと同義語だと感じてしまうことです。しかし、これは違う。まったく違うのです。日常語で云うところの、頭では分かる、というものです、これは。当然のことですが、次に出てくる言葉は、頭では分かっているんだけど、行動が伴わないというものです。この種の感情は、啓発本から、あるいは、良い結果を得られた占い本から得られた感覚とよく似ていて、決して長続きなどしないものです。ましてや、考え方が変わったとは到底言えない類のものです。だからこそ、啓発本にハマった人の本棚には、同じような書が何冊も並んでしまうのですし、占いに凝った人は、まるで自分の意思力などないかのように、決定的な決めごとを占いの結果に委ねてしまうというような信じがたいことが起こるわけです。こういう人たちは、考え方を変えることや、それに伴って自分の生き方が変わることに対して、そもそも臆病なだけで、結果的に最初の一歩が踏み出せないわけです。世の中にまん延している保守主義は、このような日常生活者の、慣習と化した、日常生活に踏みとどまろうとする心性とうまく合一しています。世界は、例えば、矛盾が堆積し、暮らしも成り立たなくなった場合に、いっとき、体制が崩れはしますが、新たな体制には、それが出来あがった瞬間から保守主義が内包されているということになってしまいます。もはや夢物語、過去の遺物と化した世界永久革命論などは、もともと人間の保守的な本性を見抜いた上でムリムリに構築された革命理論ですから、これも行き過ぎたものと云う意味では、絵に描いた餅です。また、体制をぶっ壊した革命によって成立したはずの新体制下において、粛清という弾圧による思想統制が起こるのは、当然の成り行きなのでしょう。歴史を俯瞰してみれば、そのことがよくわかります。

話が堅苦しくなりました。日常生活をより快適に、豊かに生きるための生活技術論にもどります。まず、考え方を変える必要があるかどうかの指標は、いま、生きていることに対して耐えられないほどに嫌気がさしていないかどうか、ということ、こういう言い方が厳しいようならば、生きていることが楽しいか、楽しくないかのどちらの側に自分の考え方が傾いているか、ということにあると思えばいいわけです。同じ日常であっても、人は考え方次第で、自分をとりまく環境はまるで違って見えたりします。僕はこういうことを世界が違って見えると称します。考え方次第といいましたが、人は座して人生の難関辛苦を克服することなど出来ません。つまり、考え方を変えると云うことの意味は、考え方を変えることによる、実践が必然なのです。実践というとなんだか小難しいことのように聞こえますが、実はそうではありません。いまのままの生活を続けていくのが苦しくなった、生きていることに価値を見出せなくなった、と思うならば、当然変革する必要があります。つまりは、生き方を変えるための実践です。しかし、自分の生き方をひっくり返すような劇的な変革を、生き方を変えるとは云いません。目の前の壁を一つ一つ乗り越えるための意思力を備える覚悟と云えばいいのでしょうか。これを実践の実体と規定します。頭ではわかるんだけど、実行が伴わないという人たちは、目の前の壁を認識することをそもそも忌避していますから、当然実践力などという発想は出ては来ないのです。あたりまえのことですが、生き方も変わり得ません。まずは生活の基盤を見直すことからはじめましょう。そして、発見した高き壁から目を背けないでしっかりと認識しましょう。実践力が発揮されるのは、まさにここからです。

政治革命理論的視点から云うならば、まさにこのような発想は修正主義と言われ、批判の対象になりますが、僕は生活技術論という観点から物を言わせてもらえば、修正主義、大いに結構だと感じています。フランスの哲学者のアンドレ・モーロワもこの意味では、代表的な修正主義者です。彼は生活技術をいう用語を羞恥心なく使います。

生き方を変えるというと、なんだかいまの生活を台無しにするかのように感じる人たちがいると思いますが、決してそうではありません。既述したことを読んでいただければ、容易に分かってもらえると思います。日常性に倦み疲れたら、その原因から目を逸らさずに向き合うこと。それがあなたにとっての壁ですから、一気に飛び越すのもよし、よじ登るのもよし、です。ともかく、壁の前で立ちつくさないこと。実践力が問われているのです。互いのこととして、大いにこの世界を飽きることなく、生き抜きましょう。覚悟さえあれば、難しいことではありませんから。

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○ロング・グッドバイ

2011-08-12 10:22:05 | 哲学
○ロング・グッドバイ

わざとらしくレイモンド・チャンドラーの小説のタイトルを借用したのは、これから書き綴ることへの気恥ずかしさのせいだ、たぶん。加えて言うなら、これまで自分を縛り、拘束することで、閉塞していた過去の遺物から解放されるのだろう、という心地よい予測があるからだ。この歳になって言うのもおこがましい気もするが、新たな価値の地平が開けるのではないか、という淡い期待感がないと言えばウソになる。
 
若かった頃の時代的趨勢に僕は押し流された。1970年という時は、程度の差こそあれ、誰それの区別なく、歴史は動くのかも知れないという気分の高揚感を植えつけるのに十分なインパクトを持っていた、と思う。

人間の精神を揺り動かすのは、言葉の力と言葉によって構築された思想だが、それが人間の行動を激変させ、持続的な実践力になるのは、実人生をより豊かにするという希望なしには実現不可能なことである。またこういう認識こそが、人間理解にとっては不可欠な要素でもある。当時の僕にもそれくらいのことは分かっていたはずだ。人間の高揚した気分など長続きしない代物だし、日常性を生きるとは、平坦な生の退屈感を甘受することだということくらいは。

幼い頭脳で読みとるヘーゲルもマルクスもレーニンもトロツキーも毛沢東も、それらの著作は、僕にとって、体制という名の保守的権威に風穴を空けるための用語集としての意味しかなかった。換言すると、当時の政治的なお祭り騒ぎは、僕にとっての、非日常への憧憬を具現化してくれるものでしかなかったのである。とにかく退屈だったのである。あの頃の僕は自分の生の退屈感を紛らわすためなら悪魔にでも魂を売り飛ばしたことだろう。その結末は、僕は自分の人生を台無しにしたとまではいわないが、少なくともかなり歪曲させはしたと思う。いま、これを書きながら、どれほどの長きに渡って生死の境目を彷徨してきたかという、自己憐憫の虜に囚われそうになるくらいには。

さて僕のいまの目測である。権威や権力をカサに来た組織や人間におもねる意思は毛頭ない。しかし、これまでのように、自ら喧嘩は売らない。売られた喧嘩も可能な限り買うことはない。産み出すものなど何もないからだ。残り少なくなったとはいえ、自分と自分をとりまく状況と冷静に対峙しようとしているのだと思う。その上で、無意味な感傷主義的言動は極力差し控える。そうすることで、視えてくるあらゆる事象から学びとる。たぶん(推測の言葉を差し挟むことの情けなさを自覚した上で)、僕は自分の存在を全否定しようとする性向から自由になれることだろう。奥歯を噛み締めて抑え込んだ憤怒の情をキレイさっぱりと忘却の彼方へと追いやることも出来るだろう。そのあとに何が視えてくるのだろうか?僕は、いま、言葉通りの意味で、ワクワクしているのである。僕の裡なるあらゆる負の感情へのロング・グッドバイ。

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○人を信用すること。

2011-08-10 15:16:46 | 哲学
○人を信用すること。

人を信用しようとしても、人間の悪意のごときものが見え過ぎて、人は、自分のまっとうな直感すら信じられなくなっているのが、現代という時代性ではなかろうか。無論、今日のテーマで書き始めているからといって、僕は決して、無条件な性善説を信じているのではない。悪しき条件下で、時と場合と条件が負の連鎖で重なれば、人間は悪魔的な存在になり得ることもよく承知した上で、人を信用するとはいったいどういうことなのかを語りたいのである。

敢えて、使い古されてすでに忘却の彼方に投げ捨てられであろう概念を持ち出す。形而下と形而上という概念性である。日本の戦後民主主義という歴史的背景の中では、この両者の概念は、政治的左翼思想とむすびついて感得されていたものだろうが、政治性を排斥した、純粋哲学的用語としての、形而下的、形而上的という規定をした上で、拙く語る。

現代において、文字どおり食えないという事態は想起し難い。ここで云う、食える、食えないというのは、生活の質のことではない。人間が生きるために最低限必要な諸要素が整うかどうか、という意味における規定である。その意味では、不景気、失業率の高低も、敢えて極論的に云うならば、ホームレスといえど、食えるか否かという次元の問題としては食える存在ということになる。

ある種の人々は云うだろう。食うや食わずの生活を強いられれば、品性下劣で、人としてあるまじき感性しかもち得なくなるだろう、と。否定はしない。確かに生活の困窮は、精神の拠りどころを奪い、世界を呪詛するようになる可能性が強い。そうなれば、当然のことだが、他者という存在は眼中に入らなくなる。多くの人々は、生活が成立しない状況下に置かれると、このような自己本意の心境に陥る可能性が高い。無論、このような状況においても、心的高潔さを保ち続けることの出来る人も当然だが存在し得る。ただ、形而下的な要素が整わなければ、人間の多くは小さな銭金に執着し、弱肉強食たる日常性へと回帰する。それを頽落と称しておくことにする。その意味で、形而下的な条件が整うということがいかに大切か、という視点は失わないでおきたいと思う。

しかし、形而上的な思念は、形而下的土台がなければ止揚し得ないものだ、というような表層的な哲学理解には、是とし得ないものがある。形而上的なるものと形而下的なるものは、人間存在にとって、抜きがたい二要素には違いないが、形而下的な土台が整わなければ、人は形而上的な思想、特に高潔な思想を構築出来ないと思い込むと、僕たちの身の回りで起こる現象のあれこれの説明がつかなくなる。形而下的土台が十全に整えば、心卑しくならずに済む人々の絶対数は確実に増えるとは思う。その意味で、形而下的なるものの整備と充実は意味あるものだと僕は考える。が、同時に、形而下的なる要素を十全に保持している人間の中には、相当に品性下劣な輩がいるのも確かなのである。この種の輩の多くは、他者との考え方の違いを認めることが出来ず、ただただ、己れの利益に繋がる視点でしか物事を捉えることが出来ない。とりたてて銭金に窮してもいないのに、いや、むしろ豊かですらあるのに、金銭の追求が生きる目的とスリかわっているような卑しき精神性の持ち主たちだ。銭を抱えて棺オケに納まりたいのではなかろうか、と思わせる。ここで云う<卑しい>とは、敷衍して云うならば、銭金に執着し過ぎると、他者は己れの銭金を増やしてくれる対象か否かという視点でしか捉えられなくなる。当然、彼らの信用の尺度は、人ではなく、金のあるなし、である。

きちんとした精神性を有していれば、卑しき人々を文字通り卑しいと認識出来るのだろうが、なにせ、この世の中、人の社会的信用度は、銭金の高によって判断される。いくら良い心性とアイデアをもった人間と云えど、たとえば、銀行にでも出向いて起業の相談でもしてごらんになるとよい。預貯金があるか否か、相応の稼ぎがあるかどうか、担保物件が整っているかどうか、そういうことだけで人の評価が決まる。人の高潔さとかアイデアのすばらしさなどは考慮の対象には入らない。人間の社会の進歩が20世紀と大して変わらず、それぞれの局面において、ずっと悪化しているのは、人を信用する尺度が、ますますいま、ここの、銭金の高だけで評価されるような社会になってしまったからだろう。金融資本主義といい、それを支えている金融工学などという、もったいつけた詐欺まがいの、実業とは無縁の集金システムが、人間の価値観を歪め切ったのではなかろうか。

人は、確かに止めどなく堕落していく心性から自由ではない。とはいえ、堕落を超克するごとき高貴な精神性も同時に分かち持ってもいる。形而下的な土台はしっかりと社会的・政治的視点から整えていけばよい。同時に、形而上的な要素を置き忘れぬことである。他者を信用し切ること。これは、人間にとって、おそらくもっとも高貴な心性のひとつであるだろうからである。他者を信用することなしに、十全な形而下的土台も構築できない。確信を持ってそう断言する。

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長野安晃

○意識と言葉に関する雑考

2011-08-04 23:24:28 | 哲学
○意識と言葉に関する雑考

ここで云う意識とは、人間の脳髄の中でかたちづくられる想念と言い換えてもよい。あるいは、次元の高い想念ということであれば、それを思想と称して差し支えないものとする。僕たちが時折錯誤するのは、意識とは、単なる脳髄の覚醒状態のことと同義語であると思い込んでいるときだろうか。しかし、このような状態とは、意識が働いていないこと、あるいは、少なくとも十全な状況ではないことを称して云うことだ。だから、脳髄の覚醒状態=意識ではないと、僕は言いたいのである。それでは、意識とは何か?

意識とは、言葉で自分の思念を創り上げられる状態のことである。従って、言葉の伴わない意識などは存在し得ない。この意味においては、たとえば、医師が患者の意識があるとかないと云う次元とは違う。生理学的な反応のあるなしが、この場合の意識という定義であるが、僕の考える意識とは、あくまで言葉で考えることが出来る状況を指して云うのである。その意味で、意識とは日常的言語から思想的言語までの幅広い言語の構築能力そのものだ、と規定し得る。

意識というものを言語の構築能力と敢えて称したのは、意識というものが、常に言語能力、つまりは考える力と切り離して考えることの出来ないものだからである。その意味においては、無意識的という概念も、やはり言語構築能力と無縁ではない。無論、無意識下においては、潜在意識という範疇に属することであるゆえに、容易に言語化出来ない要素を含んではいる。ただし、それは生理学的次元まで落としたものではない。具体的に云うならば、意識と言語構成能力は一体ではあるが、無意識下で生起する言葉の集積の結果は、「想いもよらぬことの言語化」も当然含まれることになる。

人はよく、わかっているのに実行出来ない、などと日常生活の場面で云うことがあるだろう。しかし、こういう現象は、実は、「わかってはいない」のと同義語である。この場合の、「わかっている」とは、むしろ生理学的次元における生命反応に近いものである。つまりは、意識を、言葉を介して自分の思念を創り上げられる状態という規定からすれば、この次元における「わかっている」は「わかっていない」ということでもある。言語化し得ぬ意識は、意識という名に値しない。言行不一致という、よくある馬鹿げたことは、意識的でも無意識的でもない、生理学的次元における生命反応で、感得している情緒である。当然のことだが、こういう人たちは他者の信用を得られないばかりか、自分がなにものであるのかということすら、明確には理解出来ていない場合が多い。人間の不幸という言葉の規定は数々あるだろうが、言語構築の伴わない意識で、世界を捉えている人がいるとすれば、彼/彼女ほど不幸な人間はいないだろう。もっと卑近な例を出せば、「頭ではわかっているんだけど・・・」という言い訳めいた言葉を発する場合も、言語構築を伴わないという意味において、「頭でも、体中の至るところを探しても、わかっているはずがない」と言い直した方が正確である。

物事の本質がなかなか視えない人とは、眼前の現象を言語化し、言語化した自分の想念で、自分の言葉として物事を捉え返すことの出来ない人のことを云う。あるいは、そのような思想的次元の舞台からはじめから降りてしまっている人のことを云うのである。幸不幸の規定がチグハグな人たちは、大抵自分をとりまく現象を意識化出来ないゆえに、不幸のどん底にいたとしても、自分ではあまり堪えていない場合もある。手を差し伸べても理解する能力がないわけで、ヘタな因縁をつけられるだけである。言語が通じないとは、こういう場合に当てはまる事柄である。そもそも意識化できる人間たちばかりでこの世界が成り立っているのであれば、人間は、もっと、もっと幸福であるはずなのだから。だからと云って、諦めることなかれ!人間の歴史とは、言葉の通じなさとの闘いであったのだし、それでも、いま、僕たちはこうして生きているではないか。

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○非死の論理を少しだけ。

2011-06-29 12:05:15 | 哲学
○非死の論理を少しだけ。

僕はたぶん、モーリス・ブランショの分かりずらい文体の端々に、とても魅力を感じ、そして、誤読しているのだろうと思う。ブランショって、誤読させる名人かも知れないな。その前に、難解だとみなさんが思っているハイデガーの「存在と時間」のエッセンスについて。第二編第一章には、「現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」(訳者が悪いな。哲学を小難しくしているのは、大抵は訳者の責任だよ。)と称して、ハイデガーの論理が展開するが、僕が注目するのは、《人はいつかはきっと死ぬ。しかし、当分は自分の番ではない。》というくだりだ。これは、人は日常性の中で、意図的な死の隠蔽を行っているということを言っているのだろう。つまりは、そりゃあ、人は死ぬさ。そういうものだけれど、我々はいつだって、日常にもどっていくのだ、と、日常語で語れば、こういうことになる。小難しいことを言っているようだけれど、これが、ハイデガーの「非本来的な現存在のありかた」だ。前記したことと真逆に聞こえるかもしれないが、ハイデガーの言説を敢えて敷衍しておくならば、「死はこの私に起こるどころか、死は、死だけはこの私に固有のものなのである」ということでもある。ハイデガーは、この世界のすべてが、取り換え可能な要素で満ち溢れていようとも、そのことを積極的に引き受けてしまう。そして言うのである。次のように。「どのように取り換え可能なこの世界においても、私の死だけは、取り換えが効かない。私の死は誰のものでもない。この私だけのものだ。」と。これを読んでくださっているみなさんは、な~んだ、ハイデガーって、意外に通俗的なんだな、って思うだろう。つまり、「人は死ぬ。だからいつでも死ねるという覚悟が据わっていれば、日々の生を緊張感を持って生き抜くことが出来る。」と言っているに過ぎないのだから。死を凝視することによって得る精神の生。それを本来性に回帰する自己だと彼は言うのである。

「これこそが私の死」「私固有の死」が、私の真理だというハイデガーの論理に対して、モーリス・ブランショは静かに横槍を入れる。つまりは、こうだ。自分に固有であったはずの死とは、それがすべてではない、と。死は完了しないがゆえに、すべてではないのだ、と。さらに言う。死によって暴露される真理とは、無いということだけだ。「私の死」を看取り、引き受け、完結させることが出来るのは、あくまで自分ではない他者だ、と。主体としての私は、死に際してもついに「すべて」であることが出来ない。「すべて」を看取ることが出来るのは、他者であり、死にゆく私を抱きとめ、その躯を弔う他者たちなのである。モーリス・ブランショが、フランスの5月革命において、その可能性を探ったのは、死の考察を超えた向こうに見える自-他との間に構築し得る<共同体>の可能性だったのである。その意味で、もし、時間がある方は、「明かしえぬ共同体」(ちくま学芸文庫)をお読みになるとよい。そこには、今日は書き得ないけれど、ジョルジュ・バタイユとマルグリッド・デュラスの哲学的な試みの果ての、「共同体」としての極限的な考察を読みとることが出来るかも知れないから。バタイユは言う。「君は死んでゆく。しかし死に瀕して君はただ遠ざかっていくわけではない。君はなお、ここにいる。なぜなら、君は死ぬということを、あらゆる痛みを受け渡す同意であるかのようにして私に委ねている。」と。概念としての死を超越した可能性が在るか?舌足らずのもの言いだが、僕は在ると答える側に確実にいる、と思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた 
長野安晃

○世界は在り続ける。在り続けるべきだ。

2011-04-16 14:22:46 | 哲学
○世界は在り続ける。在り続けるべきだ。

これまで、「読む」ことと、革命という概念とは、テキストの編み変えとそれによる再構築という媒体を差し挟めば、同次元の問題であることを書き綴ってきたが、今日も、それに対する補足をもう少しだけ。

「読む」という行為において、僕たちが最も気をつけねばならないことは、「読み難さ」という現象があっても、「読み得ぬもの」という概念はない、ということに常に意識的であれ、ということである。ここは、ぜひともきっちりとおさえておかねばならないところだ、と僕は思うのである。何故ならば、世のあらゆる原理主義という思想的陥穽とは、実はテキストを読みこなせない、あるいは、読み飛ばすという飛躍から生まれ出てきたものだからだ。もし、それが、宗教的原理主義だとするなら、テキストとしての宗教的原典に明記されていることを、敢えて飛躍した読み方をして、意図的誤読をしていることが殆どだ。宗教における原理主義というと、当該宗教の原典を忠実に読み込んでいると錯誤しがちだが、実は、本質は、正反対なのである。原典の誤読ならまだしも、意図的な悪利用をしていること、しばしばなのである。

具体的に言おう。宗教を例にとれば、終末論を逆手にとった発想がまかり通るようなものは、総じてエセものである。オウム真理教はどうだっただろう。麻原彰晃は、説教テープで繰り返し「人間は死ぬ。死ぬ。絶対に死ぬ。」という終焉的な言辞に徹したのは、人間とはどうせ死ぬのだから、それは世界の滅亡と同時的にその死がやって来なくてはならない、という非論理にスリ換えるためである。オウム真理教のテロリズムは、世界の滅亡へと導くための巻き添えの論理である。そこに新たな世界像の創設は感じとれない。いや、そもそも一個の人間の死の解釈としては、己れが死しても、世界は何の変哲もなく、己れの存在とは無関係に存続し続けるという概念性の方が、突き詰めれば己れと己れにまつわる他者との関わりにおいて、某かのことを成し遂げられる可能性が高い。しかし、だからと云って、なし得たことに対して、己れという存在を過大視することは、世界を巻き添えにした滅亡論と紙一重のところに在る。僕たちはこういうことに常に自覚的でなくてはならない。ここまで書けば、多くの人たちは、ハタと気づくであろう。オウム真理教のテロリズムによる国政の制覇の狙いとは、ナチスの第三帝国の論理と瓜二つだということに。ヒトラーに果たして、未来像があったか?否である。ヒトラーは滅亡への道をひた走ったのである。世界制覇という目論見など、ヒトラー自身の滅亡と、世界という存在を同次元においた滅亡論のプロセスそのものだったではないか。この種の危うさは、人間が、自分が死した後も、あたかも自分が存在しなかったかのごとくに、世界は在り続けるのだ、という思想に甘んじ切れなくからだ。こういう考え方に陥った思想的・政治的指導者たちの出現の可能性を残している限り、消えることのない人類の危うさとして克服すべき課題ではなかろうか。滅亡への先導者に共通しているのは、テキストの条理性からの意図的な逸脱である。あるいは、もっと簡単に言えば、読み飛ばしか、誤読の結果が惹き起す悪魔的な誘惑のシステム化を目指すということである。僕たちは、こういうインチキを許してはならないし、インチキが惹き起した現象に惑わされてはならない。

そのために、僕たちは、読み難さを回避することなく、読むのである。綿密なテキスト理解こそが、間違った指導者を崇めることから僕たちを自由にしてくれる唯一の武器になる。読み難さを読み解く行動のプロセスにしか、未来を創設する力は湧き出てはこないのだから。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○テキストとしての革命考

2011-04-14 12:32:38 | 哲学
○テキストとしての革命考

作家の後藤明生が、「なぜ小説を書くのか?」という自問に対して、「もう小説は読んでしまったから」と答えているのは、とても興味深い洞察を含んでいる。他者が書いた出来のよい作品は、読んでいて、新たな発見をさせてはくれる。また、もっと素朴に言うとおもしろいのである。おもしろいから読む。それが「読む」という行為を促す深い動機である。つまり、僕たちは、読むことによって、世界のさまざまな姿をテキストという形式で諒解するのである。そのモチベーションとなるのは、おもしろさでもあるだろう。したがって、テキストを読み解くという行為は、世界を読み解くという、真性の革命的営為そのものである。世界というテキストを読み解き、革命的変革を果たすことにおもしろさが伴わないはずがないではないか。それでは、何故テキストを読み解くことが革命的なのか?それは、世界のありようを読み解くことが、世界の現況を限りなく変化させ得る力学と通底しているからに他ならないからである。さらに言うならば、後藤明生の自問にある、「書く」という行為は、革命後の世界像を創造することでもある。テキストを読み解き、編み直し、再構築する。これが、革命のテキスト理解の本質である。

革命が18世紀以来の暴力革命と同義語であるという狭隘な捉え方をすることは、現代においては、もはや通用しない、古びた論理だ。日本で云えば、坂本龍馬の「船中八策」は、幕末の大政奉還という無血革命劇を成し遂げたテキストそのものであり、そのテキストは、明治政府の指標となる「新政府綱領」として結実する。テキストが革命を成し遂げる。誤解を怖れずに言えば、革命とはテキストそのものである。しかし、そのテキストは、遅れてきた帝国主義国家日本が、取り返しようもないほどの世界史的誤謬を生み出し、自国の壊滅的瓦解と、とりわけアジア・太平洋諸国に対する人を人とも思わぬ恥ずべき支配とその崩壊劇として、一旦は終焉するのである。日本の支配のありようは、西欧列国のかつての帝国主義という強圧的・差別主義的弾圧のもとに、植民地から絞るとれるだけ絞った搾取の姿の再現だった。その意味では、民主主義を装っている西欧諸国が、厚顔にも当時の日本を侵略国扱いする資格はない。しかし、このように書いたからと云って、馬鹿げた右翼思想家や評論家たちのように、他国への侵略を正当化するのは、西欧諸国並みにバカげていることを書き添えておかねばならない。

その後に起こった日本におけるテキストとしての革命とは何ぞや? 勿論、それは日本国憲法の創設と実施である。日本国憲法こそが、現代における最も優れた革命的テキストであると云わずして、何を語ることなどあろうか!たとえ、それが、悪しきテキスト解釈によって、下卑た法的抜け道を創り続けてきたにせよ、日本国憲法は、たとえば、第9条の戦争の放棄、第25条の生存権の確立という輝かしい革命的存在として、息づいているではないか! 過去の遺物たる右翼的な諸々の分野の人間たちが、憲法改正?(改悪だろうに)を喧しく口にする。しかし、彼らが言うように、憲法改悪の動きの論拠の中に、日本の自立などというファクターなどありはしない。憲法改悪論者たちは、一応に、19世紀的な帝国主義者と同じ次元の思考回路しか持ち合わせてはいないのである。彼らこそ、世界の革命的な深化を阻もうとする古びた利権追求論者たちだ。反革命分子に日本の未来など構築出来るはずがない。時計の針を19世紀にもどしてどうする?バカという言葉を使うならば、こういう輩に対して投げつけるものだろう。

もともと西欧列国にとっては、日本など極東の植民地にしようと画策したちっぽけな島国。自分たちと同じようなことをすれば、そりゃあ利権を脅かされるし、何よりも頭にくる。日本だって、人間扱いされていない国のひとつだったという認識を持たねばならない。だからこそ、太平洋戦争の勝敗は東京・大阪の無差別虐殺たる大空襲をやりながら、なおかつ、戦後世界の世界支配を目論む帝国主義者たちの思惑のために、広島・長崎への原爆投下をやったのである。戦争の終焉を早めるため?ウソっぱちである。アメリカ国民も21世紀のいまも騙され続けているのである。テキストとしての革命的思想性とともに、反革命路線としてのテキストも併存しているのである。これは、一般に言うところの、保守派、進歩派、革新派などという範疇の問題ではない。敢えて言うならば、世界史的コンテキストの中で繰り広げられる革命と反革命とのせめぎ合いのテキスト論争である。

このような観点で、世界を捉え返してみてはどうか、と思う。また、異なった視角から、世界が視えて来るかも知れないから。

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長野安晃

○それでも、革命と云う思想のあり方は問い続けられるべきだ。

2011-04-12 16:48:26 | 哲学
○それでも、革命と云う思想のあり方は問い続けられるべきだ。

左翼主義という思想をひとつのジャンルに括ることが難しい時代になって久しい。

東西冷戦の終焉と共に、単純な東側諸国の左翼主義に、西側諸国に生起する社会的矛盾や不公平感の浄化の末の、リアルなユートピア社会の幻像を重ね合わせることの無意味さを誰もが思い知った。革命によって勝ちとられたはずの、人民のための、公平で、友愛に富んだ理想郷であったはずの、遥かかなたの理想郷が、民衆の粛清によって構築された思想統制の、思想的異端者たちを削ぎ落していくための秘密警察が跋扈する恐怖政治のなれの果ての、唾棄すべきエセものだったという絶望感。しかし、そうであっても西側諸国に生きる人間にとっても、独占的な情報授受可能なポジションに昇りつめた人間だけが、実質的な富の独占者であり、小市民である僕たちは、彼らの投げ与えるお余りの捨て金によって、食いつないでいることに変わりはない。厚い皮を剥き続ければ、ここでも銭金に埋もれた守銭奴たちの下卑た笑い声が聞こえてきそうだ。資本主義の勝利、共産主義の敗北という単純な図式の中からは決して分かり得ない、崇高な革命の定義の見直しの重要性。今日の僕は、この課題の周縁的なことを少し語る。周縁的と敢えて書いたのは、たぶん、僕の主張をまだ日常語に噛み砕けない段階に自分がいるからだ。そういう意味での周縁的であり、僕の裡では、勝手なようだが核心に立ち至っている思想の土台ではある。誤解なく。

思想的な変節の典型例として、西部邁という思想家について少し触れてみようと思う。たくさん著作は出ているので、ご存じの方は多いと思う。このところご無沙汰だが、以前は「朝まで生テレビ」の論者として、常に出ていたから、彼がまったくの右翼思想家だと思っている人も少なからずいるだろう。西部は60年安否闘争の全学連の委員長として国会突入を果たした学生たちの只中にいた人間だ。その後の長い法廷闘争の末に、東大の教授にのし上がったのだから、西部の実力もさることながら、当時の時代的な牧歌性は、現代とは比較の対象にもならない。中沢新一(当時すでに「チベットのモーツアルト」という著作で有名になっていた)を東大教授として招聘することになっていたのを、教授会のヘタれた議論に嫌気がさして、西部は東大教授を辞した。それ以降は、思想家としていまだカクシャクとしている。現役だ。しかし、僕は西部のような思想の彷徨と変遷と同じ轍は踏みたくないと思っている。西部が左翼から右翼に転向したことを忌避しているのではない。その意味では、西部は右翼思想家ですらないからである。

西部は、大衆闘争としての安保反対闘争に身を投じて、その結果、大衆の右顧左眄的で、保身的な本性に絶望したのだ。東大教授会の民主主義的?な議論の欺瞞性にもウンザリしたのである。だからこそ、彼は海外の真性の右翼思想のエッセンスを己が左翼思想にパラパラと振り撒いたのである。西部が思想家として名をなしたのは、「大衆への反逆」であったし、「幻像の保守」であった。前者は、日本の小市民性を痛烈に批判したものであり、後者は、保守主義者として自分は立つが、日本にかねてより蔓延っているような保守を批判しつつ、真性の保守主義を確立しようとする。そのことがいかに困難で、不可能に近いことかを西部はよく識っている。だからこそ、西部をして、己れの保守主義を幻像と云わしめたのである。

僕は思うのである。左翼思想は決して過去の遺物ではないと思うのである。そして、巨悪蔓延る社会変革としての革命は、いまだなし得ないままに永続的に僕たちの前に横たわっているのである。歴史的過去に起こり得た数々の革命劇は、暴力革命である。無論無血革命があったにせよ、それ自体の革命性においては、暴力革命の変奏の姿に過ぎない。僕がモデルに出来ると感じる革命とは、ドイツの宗教家であるマルティン・ルターの宗教改革である。ルターは徹底して聖書を読み込んだ。テクストしての聖書には、当時の宗教的権威であった教皇を中心にとり決めた数々の民衆に対する宗教税等々など書かれてもいなければ、教皇の存在すら書かれてはいない。ルター民衆には無縁だった、ラテン語聖書をドイツ語に翻訳する。民衆の文盲率は高かったにせよ、ドイツ語訳聖書を読み聞かすことが出来る。そうして、民衆は目覚めたのである。ルターはひたすら読み、書いた。ルターにとっての革命とは、文学という行為そのものである。革命の究極の姿とは、文学であり、文学なき革命などは無効なのではなかろうか。

もはや、流血をともなう体制変革だけを革命などと云うのは、時代錯誤、思想の錯誤である。根底のところで、大衆を視野から離した西部のごとき思想の変遷は、見苦しい。それよりも、僕たちはひたすら読み、書こうではないか。それこそが、新しい世界像を創設できる唯一の方法論だ。西部のように、<幻像の~>などと、裏返った卑屈さを晒すこともないはずだ。世界というものをテキストとして認識し、それを深く読み込み、そして、真実を識るのである。テキストの編み直しこそが、革命に繋がる力業である。ならば、文学を抜きにした革命など、不毛の産物ではないか。文学こそが、革命に不可欠な存在である。

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長野安晃

○エピキュリアンとして生きるべきなんだ。

2011-04-08 10:25:52 | 哲学
○エピキュリアンとして生きるべきなんだ。

世界中に不況の嵐が吹き荒れ、身のまわりの空気がざわつき、息苦しさに身もだえしながら、生きがたさの中で閉塞せざるを得ない昨今、僕たちに出来る抗いの好ましい姿というのは、重苦しい空気を遮断するのではなく、むしろ力の限り体内に取り込んで、己れの力で浄化しようとする覚悟を抱き、この世界を生き抜こうとする意思と同義語である。しかし、ここに古風な克己心であるとか忍耐という概念は、意識的に持ち込まないということも書き添えておかねばならないだろう。

人間は、いかに困難な状況の中に投げ込まれても、前記したような精神のありようを忘却しない限りは、必ずや瓦礫の中から立ち上がれるのである。立ち直れる力がありながらも、自ら折れてしまうような、あるいは自己崩壊を招くがごときの、自己否定の連鎖の中に飛び込むようなことだけは回避したいものだ。心底そう思うのである。

現実問題として、世界は政治的・経済的・地政学的に大混乱を来たしている。まったりすることの難しさを今日ほど身にしみて感じる時代はかつてなかったのではなかろうか?無意識の底からふつふつと滲み出して来るような負の感情ほど組み敷くのに困難なものはない。いかなる希望的観測をも差しはさまないで今日を素描すれば、悲劇的を通り超して喜劇的ですらある。

さて、僕たちは生きねばならない。なぜか?それは、生とは生き抜こうとする意思そのものであるからだ。少なくとも、僕の裡なる生の定義とはこういうものなのである。だからといって、己れの裡なる精神主義ー克己心や忍耐ーを過剰に評価するのは、人間の本性に反している。その意味で、この時代だかこそエピキュリアンとしての生きざまが求められているのではなかろうか?日本語の訳語としては、エピキュリアンとは快楽主義者あるいは悦楽主義者という、日本人にはあまり耳障りのよくない言葉として認識されていることだろう。しかし、この場合における快楽・悦楽とは、あくまで人間の本性に忠実に生きようとする、とても生に対するポジティブで、肯定的な思想と定義することが出来るのである。人がこの世に生まれ出て来た限りは、根底的な領域において、生を楽しまなければ無意味・無価値であろう。楽しみがあってこその、苦悩でなければ人はその苦しみゆえに生そのものを投げ出しかねない。逆に、生の苦悩の中をくぐり抜けて、かつての自己よりも一回りも二回りも力強く、大きくなれるのは、エピキュリアンとしての自覚が、その根源的な心的エネルギーたり得るからである。

あらゆる意味で世界は、広大無辺な存在ではなくなった。世界は、少なくとも人間に認識し得る世界像とは、現代に立ち至って、とても狭隘になった。それは一面では人間の進歩のあとであり、その結果でもある。が、地政学的には、地の果てという概念は喪失してしまった。果てしがないというのは、その果てを見極めようとする人間のロマンティシズムをかきたてる重要な概念であった。かつての新天地アメリカに渡ったヨーロッパの人々は、広大な果てしなきアメリカ大陸を西へ西へとひた走ったのである。それは単にゴールドラッシュという一攫千金の夢のためになし得たことではない。果てしなさを享楽するエピキュリアンとしての人間の本性が西海岸という<果て>の終焉にまで、人は夢を求めて楽しんで生き抜いたのである。無論個々の不幸は数えきれないほどにあったにせよ、総体的に見れば、やはり、それはエピキュリアンとしての夢の追求であった。多面的な個性を持った人間だったからこそ、力に任せても、ネィティブアメリカンを圧殺しても、彼らヨーロッパからの移民たちは果ての果てまで行き着いたのである。その後のアメリカの悲喜劇は、他国への侵略と軍事介入という、また果てしなき<享楽>の連続であった。いまだにそれは続くが、しかし、同時に、現代においては、地球という世界像の狭隘さを証明するばかりとなった。つまりは、帝国主義的な力業による<悦楽>の追求の時代は終わったのである。

この息づまるような世界において、僕たちはエピキュリアンとしての新たな旅をはじめなければならない。それはたぶん、単純に宇宙へ、という回路はとらない。そうではなくて、人間の内面へ、と向かう旅である。無論、閉塞してはならない。あくまで、エピキュリアンとしての、個性の多面性を楽しむ精神の彼方への旅路になるだろう。ここを経由しなければ、人の内面は、いつまで経っても豊饒さとは無縁の存在のままだ。もし、そうであれば、豊かな他者との繋がりなど望むべくもない。僕たちは21世紀のエピキュリアンたり得なければならない。

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長野安晃

○永遠という概念が、生きるための欲動と通底しているんだ、と思う。

2011-04-06 14:26:42 | 哲学
○永遠という概念が、生きるための欲動と通底しているんだ、と思う。

人間の生そのものが永遠という概念とは無縁の、ごくいっときの、この世界の現れに過ぎないのに、やはり人間は、生きるための何がしかの虚構、あるいは、それを物語と規定しても差し支えないが、自己が生きている間は、<意識>の永続性が永遠性と繋がっていなければ、社会という器の中で生き抜くことが出来ないらしい。

言うまでもないことだが、人が生きていると実感できるのは<意識>の領域である。<意識>は理性と情緒を兼ね備えているものだから、理性の側面では、生の終焉についての認識を持つに至るはずである。しかし、その認識とは常に薄皮が覆っていて、すっきりとした像を結ばないのが通常の姿であろう。人間の死についての<意識>のあり方とは実に滑稽な要素を持っていて、一方で死の準備として、ある意味酷薄な生命保険というシステムの中に自己の死を投げ入れるかと思えば、それと平行するように、過剰な健康志向とガン検診を含む健康診断ブームの到来。社会構造が根本的に瓦解しない限り、どんなに不況の嵐が吹き荒れようと、生命保険会社は、儲け続けるし、ガン検診を含めた健康診断を手がける医療機関も儲け続けるのである。若い頃は結構シリアスな映画で評価された地井武男なんていう役者が、ギャラがいいのだろうか、ある保険会社の老年向きの保険の宣伝をやっていた。まるで年寄りを騙して金をクスね取る詐欺師のような顔つきになるから、こういう役どころの顔つきに自然になっているんだな、と、妙に納得してしまう。地井武男曰く、「お葬式代だって保証されているんですよ、ねえ、おとうさん、おかあさん!」だって。残酷さが行き着く果ては、やはり滑稽という概念なんだ、と今更ながら胸に落ちる。とかなり前にこれを書いていたら、地井武男自身があっけなく逝ってしまった!

人が生きるというのは、あくまで自己の死を意識しないことを内包している。意識しないどころか、心のどこかで、自分の死は永遠の宙吊り状態であって、決して具体性を帯びた想像などは訪れはしない。その意味で、人の死生観は、情緒的な感性によって支配されていると言って過言ではないだろう。しかし、その一方で、自己の生が限られたものでしかない、という認識を理性的に同時に分かち持つ。このような精神のアンビバレンスに食い込んで来るのが、生命保険会社と検診ブームという、発想のベクトルとしては、真逆の現代的戯画が同居するというおかしな現象である。

永遠という概念性の究極の姿は、太古の昔から、さまざまなかたちの絶対者=神という創造者の創作によって、人間は自ら、生きるための欲動を刺激し、鼓舞する。現代という時代において、この日本において、少数の各々の神の信仰者を除けば、大抵の人間は、実質的な無神論者に近い。では、彼らは何にすがることで、生の永遠性を擬似的であれ、それを諒解するのか?まとめて言えば、社会性を含んだ環境に身を浸すことによって、と書き記せば誰もが思い当たるはずである。ごく私的な経験を一つ書き置く。教師時代に、気の合った年配の教師が二人いた。お二人とも自分の世界をそれぞれに持っている人で、学校で教鞭をとるのが嫌いだというのが口癖だった。いまもそういう教師がいるのかどうかは知らないが、ともあれ、そのお二人は、授業が終わるとそそくさと校門を車で走りぬけて各々の世界へと帰還していかれたものだった。時期は数年ずれるが、お二人とも50代前半に末期ガンと診断されて、さて、それからがたいへんだった。あれだけ忌避していた学校へ動かぬ体を引きずるようにして、教室に行く。とても積極的に、そして能動的に。お二人ともに仕事を慈しむようにこなしていく。淡々と。しかし、なにせ末期ガンにて体力は日に日に衰える。教壇に立っていられず椅子に腰を降ろしたまま、生徒の方を見つめながら真剣に語りかける。廊下を通りかかると、その様がありありと伝わってくる。高校生ともなれば、生徒も何が起こっているのかを察する。騒がしい生徒もいるのに彼らの授業中は、まさに水を打ったように静まりかえっている。いろいろな想いが錯綜しながらの静けさなのだろうけれど、日常語で言えば、まさにドン引き状態。それでもお二人ともに死の直前までこれまで見たこともないくらいに、まじめに?学校へやってきては、それこそクソがつくほどにまじめに授業をこなす。生徒にとっては、ドン引きのそれを。

彼らにとって、これまで忌避してきた環境であれ、そこに長年勤め上げてきたのである。職場にさえ行けば、末期ガンそのものが、悪い冗談で、これまでのような日常がずっと続くと思っていたフシがある。彼らにおける擬似的永遠性への希求だったと思う。翻って考えれば、やはり、生き続けるには、人はそれなりの動機が必要なのだろう。具体的な現れは人それぞれだとしても、永遠への渇望が生きることの根源的なファクターになっていることは、たぶん否定し切れない事実だろう。死を決意したとき、人は永遠への欲動を同時に棄てたときだ。そんなことを考えつつ書き遺す。

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長野安晃

○「ことばの力」考

2011-04-01 11:56:17 | 哲学
○「ことばの力」考

自覚的・無自覚的であるか否かという概念を考慮の中に入れたとして、人間の行動のすべては、自分の脳髄の中の想念によって引き起こされるものであると規定しても、それを極論だとは言えないだろう。想念を思想と言い換えてもよいが、それらは、すべてことばによって構築された、まとまりのある概念である。そう、人間の行動、実践は、すべからくことばの裏づけがあって初めて成立するのである。

言うまでもなく、人間の行動・実践には高潔さから、下卑た低次元のものまで存在する理由は、行動者・実践者のことばの次元の高低によって決定づけられる。ことばに力がある、というのは、ことばの発信者の、ことばによる思念・思考の内実がことばを受ける側の思念・思想を凌駕し、変革し得る場合に限る。また同時に、発信者のことばが、ことばの概念性そのものによって閉塞したものであれば、他者の言動に変化を与える力はないし、その逆に、発信者のことばに、思念・思想の構築力と同時に、それが発信者のことばを受動する側の人間に実践力を喚起するものであれば、発信者のことばによる世界像は、限りなく外に向かって広がっていくものである。換言すれば、人間の行動や実践における高潔さとは、ことばの力によって、常に広がりのある世界観を有した代物であり、下劣なそれとは、ことばそのものが、閉塞的であり、自閉していく、保守的な存在である。

少々過大に規定した感もあるにせよ、かつてマクルーハンは、メディアこそが、マスとしての人間に対して、もっとも有効なメッセージを与え得ると、現代社会の一側面の現象を鋭く見抜いていたのである。現代において、メディアという範疇に入る代表的なものとして、紙媒体としての新聞・雑誌・小説・哲学・・・・という数多きジャンルが存在する。また、時代を反映してか、紙媒体が、コンピュータを介したデジタル媒体への移行に移ろうとしている時代でもある。また、絵画や音楽や映像ですら、デジタルという信号に変換し得る時代でもある。しかし、そもそもデジタル化以前の時代における、他者の存在を前提にしたあらゆるジャンルにおいても、あるいは、目を見張るようなスピードであらゆる言語媒体がデジタル化されつつある今日においても、人間が他者に向けて何ものかを発信する限りにおいては、媒体の如何を問わず、発信者の並々ならぬ、ことばを媒体とする他者への意思伝達ーそれが実は思想というものに深く根ざしているわけなのだがーとは、ことばによる他者の変容を迫るかなりアグレッシブな実践的行為だということが出来るのではないか、と僕は近頃考えているのである。ことばの力とは、このような具体的・実践的な営みに必要な尽きることなき水源のごときものである。人が生き抜く限り、人は、このような自=他という図式の変容と強化のプロセスの中に投げ出されているようなものなのである。その意味合いにおいて、人が生き抜くための不可欠な要素とはただ一つ。それがことばの力である。

前記した意味におけることばの力における反措定。それは、他者への意識的な影響力を、あるいは働きかけを投げ出したような言語交流である。昨今の流行にいちゃもんをつける意図はない。が、たとえば、twitterという140文字内のまさにことばどおりの呟きに、呟き手の側の他者に対する強い説得的意図は伺えない。たとえ、ひとつの呟きに対して、すぐに数多くのfollowersがついたにしても、その中の呟きに、たとえば、演説のごとき、あるいはアジテーションのごとき、強き説得的意思が在るか?否である。無論、twitterの反響の大きさを揶揄しているのではない。しかし、あるはじまりの呟きが、世界的規模の声になったとしても、それは、偶発的な呟きの重層的な現れに過ぎない。その意味で、呟きは、マスのさらなる大衆化という意味での位置づけが妥当である。

ここで、僕は敢えて、朴訥なことばの力の高め方について、あまりにありふれたことを書き記す。それは、孤独な読書体験の必要性だ。啓発書や、エンタメの類の読み物でなく、血肉の通った創作作品に対する傾斜の必要性だ。難解なものであれば、わからないままに読み進めるだけの忍耐の必要性だ。このような孤独な知的作業を抜きにしては、自分のことばの力が、他者に対する積極的な影響力を持つことはあり得ない。時代に逆行しているのかも知れないが、敢えてここに書き記す。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃