○なるほどなあ、と思うことがあったので。
昨今は、読書に対しても、拘りがまったくなくなった。拘りの実体とは、ご大層な根拠もなく、ただ、自分のこれまでの感性に基づいた、作品に知性(無論、こういう言葉も妥当だとは思えない)が感じられるかどうか、という一点で読むべきものを選別してきたように思う。しかし、このような考え方の根底にあるものは、自分の過去の価値観にすがり付いているだけの、その意味では勇気なき保守主義者になり下がった、体たらくな意識なのである。これでは、人生、おもしろきことを取りこぼす。ヤバいと感じていたので、敢えてこれまで食指を伸ばさなかった作家たちの作品を読むことにしてから、2,3年も経つだろうか。実行してみると、これが新たな発見の連続みたいなもので、またまた、興味の幅が広がった。喜ばしい限り。生きているのもまんざらではないな、とつくづくと思う。船戸与一もごく最近手にとるようになった作家のひとりだ。しかし、この人がなかなかいいわけで、何冊かまだ読んでいない文庫本が本棚にあるが、いま、読んでいるのは、「新宿・夏の死」という短編集。9月も半ばだというのに、クソ暑い今年の夏に読むには、うってつけのお題だ。それにしても、短編集というと何となく薄っぺらい本を想像しがちだが、これが寝っ転がって読むには腕が痛くなるほどの分厚い文庫本だ。一つ一つの小説の出来は至極いい。最初の短編が「夏の黄昏」だが、ここに登場する、人生の晩年に到達した男女の再会の中で交わされた言葉は身に沁みる。こうだ。「おたがいにもう滅びは近い。その滅びに向かって一緒に闇のなかに溶けていきたいのです。」という女性が残した手紙の中の一節。胸に沁み入る。後ろ向きな発想だとは思わない。むしろ、遠からず押し寄せてくる己れの死を受容する思想を構築し、すべての終焉たる死すらも、生きるためのエナジーのファクターにしようとする強い意思を感じるのは、果たして僕だけか?
たぶん、大抵の人たちが畏れる死とは、観念的な絶対無の感覚ではあるにしても、そもそも生きている人間にとって、無という観念を実感する術がない。たとえば、簡単にこんなふうに表現する人がいる。曰く、「自分の意識が無くなること。自分の存在が消失すること」等々。しかし、人がこのように無を表現するとき、すでに矛盾が生じている。つまり、自分の意識が無い状態を、生きている意思で想像しているだけのことだからである。しかし、いま、ここに、絶対的に無いことを想定することが、原理的に不可能なのである。そうであれば、死を具象化するしかなくなる。たとえば、何かの映像で観た、臨終に至る人間の苦悶の表情。身近な人が死にゆくときの、苦しげで切なげな苦痛の叫び。しかし、死にゆく人間に用意された、死の身体的苦痛とは、裏返った生への希求を喚起させるためのものだ。人間の本性とは、たぶんこういうものだ、と僕は思う。だからこそ、自死などは出来ることなら避けた方がいい。自己の体内に生への欲動が組み込まれているのである。生きようとすれば、確実に生き抜けるはずなのだ。
「滅びに向かって一緒に闇のなかに溶けていきたい」という思念は、日本的な愛の究極の姿ではなかろうか。人生の闇の中に溶け込むには、老いを生き切るそれ相応の覚悟と勇気が必要だ。こういう考え方の上に立てば、無意味な延命など馬鹿げたものに感じることになるだろう。あるがままに生を生き、あるがままに死を死する。それでよいではないか。その意味で、メメント・モリ!(死を想え!)と云う言葉が生への希求と通底している、とも僕は思うのである。いかがなものでしょうか?
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
昨今は、読書に対しても、拘りがまったくなくなった。拘りの実体とは、ご大層な根拠もなく、ただ、自分のこれまでの感性に基づいた、作品に知性(無論、こういう言葉も妥当だとは思えない)が感じられるかどうか、という一点で読むべきものを選別してきたように思う。しかし、このような考え方の根底にあるものは、自分の過去の価値観にすがり付いているだけの、その意味では勇気なき保守主義者になり下がった、体たらくな意識なのである。これでは、人生、おもしろきことを取りこぼす。ヤバいと感じていたので、敢えてこれまで食指を伸ばさなかった作家たちの作品を読むことにしてから、2,3年も経つだろうか。実行してみると、これが新たな発見の連続みたいなもので、またまた、興味の幅が広がった。喜ばしい限り。生きているのもまんざらではないな、とつくづくと思う。船戸与一もごく最近手にとるようになった作家のひとりだ。しかし、この人がなかなかいいわけで、何冊かまだ読んでいない文庫本が本棚にあるが、いま、読んでいるのは、「新宿・夏の死」という短編集。9月も半ばだというのに、クソ暑い今年の夏に読むには、うってつけのお題だ。それにしても、短編集というと何となく薄っぺらい本を想像しがちだが、これが寝っ転がって読むには腕が痛くなるほどの分厚い文庫本だ。一つ一つの小説の出来は至極いい。最初の短編が「夏の黄昏」だが、ここに登場する、人生の晩年に到達した男女の再会の中で交わされた言葉は身に沁みる。こうだ。「おたがいにもう滅びは近い。その滅びに向かって一緒に闇のなかに溶けていきたいのです。」という女性が残した手紙の中の一節。胸に沁み入る。後ろ向きな発想だとは思わない。むしろ、遠からず押し寄せてくる己れの死を受容する思想を構築し、すべての終焉たる死すらも、生きるためのエナジーのファクターにしようとする強い意思を感じるのは、果たして僕だけか?
たぶん、大抵の人たちが畏れる死とは、観念的な絶対無の感覚ではあるにしても、そもそも生きている人間にとって、無という観念を実感する術がない。たとえば、簡単にこんなふうに表現する人がいる。曰く、「自分の意識が無くなること。自分の存在が消失すること」等々。しかし、人がこのように無を表現するとき、すでに矛盾が生じている。つまり、自分の意識が無い状態を、生きている意思で想像しているだけのことだからである。しかし、いま、ここに、絶対的に無いことを想定することが、原理的に不可能なのである。そうであれば、死を具象化するしかなくなる。たとえば、何かの映像で観た、臨終に至る人間の苦悶の表情。身近な人が死にゆくときの、苦しげで切なげな苦痛の叫び。しかし、死にゆく人間に用意された、死の身体的苦痛とは、裏返った生への希求を喚起させるためのものだ。人間の本性とは、たぶんこういうものだ、と僕は思う。だからこそ、自死などは出来ることなら避けた方がいい。自己の体内に生への欲動が組み込まれているのである。生きようとすれば、確実に生き抜けるはずなのだ。
「滅びに向かって一緒に闇のなかに溶けていきたい」という思念は、日本的な愛の究極の姿ではなかろうか。人生の闇の中に溶け込むには、老いを生き切るそれ相応の覚悟と勇気が必要だ。こういう考え方の上に立てば、無意味な延命など馬鹿げたものに感じることになるだろう。あるがままに生を生き、あるがままに死を死する。それでよいではないか。その意味で、メメント・モリ!(死を想え!)と云う言葉が生への希求と通底している、とも僕は思うのである。いかがなものでしょうか?
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