ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○現代における生の物語性について少々。

2011-02-21 12:23:02 | 哲学
○現代における生の物語性について少々。

もし、僕が、人は誰もが、自分固有の物語性の中で生きている、と言い放ったら、そのことに対して反論したくなるのでしょうか?たぶん、反論する人々の反論たる思想のコアーというのは、自分は現実の世界で生きているのであって、物語などという虚構の中で生きているのではない、と論駁することでしょう。日常生活をきちんとおくり、仕事をし、帰宅したらいつもどおり食事をし、風呂に入り、明日に備えて眠るという現実を生きているのだ、と。

勿論、生きるために不可欠な生活時間の要素を否定しているのではないのです。それは、僕にだって厳然としたかたちで、在るわけですし、そのこと抜きには、そもそも人は生存できないからです。前記した具体的な生活のパタンから、不幸にもリストラや、就職難で仕事に就けない人がいたとしても、それは生活時間の中から、仕事という要素を抜いて考えてみればよいだけのことです。

生きるための物語性とは何ぞや?ということですけれど、それは別の言葉で表現すると、生きる意味と言い換えてもよいものです。しかし、生物学的な視点から見ると、たとえ人間には考えるという能力が備わっていたとしても、生きること自体に意味などないのです。論理的にものを言うために敢えて、このように言い切ります。

今日は、人間の物語性というごく限られた一側面への言及です。哲学と現実的な政治的テーゼの簡単なアウトラインについて。そもそも現代という時代は、価値が錯綜している時代です。簡単に言うと、極論すれば、人はそれぞれ勝手気ままな価値観で生きていれば、それでよいのだ、という相対主義的思想ですけれど、たとえ勝手気ままな価値観というものであれ、人は、それぞれの生に対する物語性の土台に乗っかって生きているわけです。たとえば、勝手気ままという物語の上に。しかし、所詮相対主義的思想というのは、ずっと昔に遡りますが、ソクラテスやプラトンが考え抜いた、<真・善・美>の世界観が崩れた結果の、真理は無数にあってよいのだ、という究極のアナキズム状態を指していうのです。無論、こうなった根拠はあります。政治的・歴史的な反省のもとに出てきたものが、アナキズム的な相対主義という現代的な物語の実体です。<真・善・美>が屈折して、政治的に悪用されると、その時々の権力者たちの絶対主義的な価値観が生きる指標になってしまいますから、それに反する考え方の持ち主は、極端な場合、粛清されたり、暗殺されたり、投獄されたりします。ポル・ポト政権や、文化大革命や、ヒトラーのナチスや、その他諸々の独裁主義をことさら掲げなくても、みなさんには、なぜ現代が、相対主義という物語的な無政府状態に傾斜していったのかがお分かりになるでしょう。

こういう相対主義に対してダメ出しをしている動きも当然あります。日本における分かりやすい例は、西部邁とか、小林よしのりの存在を想起してください。彼らは、やはり、幻像あるいは、物語としての天皇制を持ち出すのですが、僕は、生の物語性に対して、何も古臭い天皇制を掲げることもなかろう、とは思っています。天皇制の賛美は、分かりやすい絶対主義の復古ですけれど、やはり、政治的価値観としては、民主主義が人間の知恵の産物としては、最も優れているとは思います。民主主義的な価値意識を持ちつつ、しかし、勝手気ままな相対主義に陥らない唯一の課題とは、それぞれ異なった考えを抱いている人々が、その違いを超えた価値の共通項を持とうとする意思です。これを、現代における政治的な粛清もない、暗殺もない、拷問もない、投獄もない、歩みはノロいとは思いますが、とても意味ある生きる物語性のあり方ではなかろうか、と思っているのです。口幅ったく、また乱暴に物を言いました。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○人が不安感に苛まれるのは、生きるための大切なモチベーションだと、僕は思う。

2011-02-10 17:08:41 | 哲学
○人が不安感に苛まれるのは、生きるための大切なモチベーションだと、僕は思う。

人が不安感に襲われて、えも言えぬような不快感、精神的苦痛、恐怖心、投げやりな気分の虜となることが多い。こういう現象だけを見れば、不安という概念は、どう控えめに考えても、負の要素が強いと思われがちだろう。確かに何事もなかったのに、唐突に襲ってくる不安感、悪夢を見て、起きぬけに感じるどうにも制御不能な不快感などは、生きるためのモチベーションどころか、逆に生きていたくない、という領域に属する感情を惹き起す。ただし、それは、あくまで現象的に、という条件つきで。

考えてみれば、人は物心ついた頃から、想像力の中で、この種の恐怖感に襲われ、それが結果的にどのような感情を惹き起すのか、という明確な確信はないにしても、自分の身の置き所を失ったような感覚は、子どもなりに感じとることの出来るものである。つまりは、不安感とは、自分の立ち位置を見定めることが出来なくなった状態と言い換えることの出来る概念性だと規定出来るのではなかろうか。

よく自分は不安だから、死んでしまうのではないか?という切羽つまった疑問を投げかけてくる人たちがいる。しかし、この問いかけはまったく死とは真逆の精神構造のベクトルから発せられる発問なのである。人は不安だから死ぬのではない。誤解を怖れずに言うと、人は不安だから生きようとするのである。自分の立ち位置を強固にするように生きようとするのである。そのプロセスで、人は不安とは無縁の生き方を結果的にしたいと望み、実際、そのようにふるまうのである。だから、人は生きるという行為の中から、不安という概念を普段は忘却しているに過ぎないと言っても過言ではないから、生と不安とは切っても切れない関係性にあるのは、必然でもある。

不安という概念をもう少し違う角度から眺めてみると、人が不安に駆られるときは、大概において、自己のこれまでの生き方に何らかの可変を加えねばならない原因があり、そのための自己修正を加えようとする大切なファクターなのである。そうであるからこそ、強い強制力を伴って、自己の裡に差し迫ったかたちで、襲ってもくるのである。自分のこれまでの立ち位置を揺るがすほどの威力がなければ、どうして生き方の修正に関わるような力を持ち得ようか?不安の概念は、その意味で強烈なのである。生きるために、それは強力な強制力を持って、立ち現れるのである。

確かに言えることは、不安の向こうには、必ず不安を克服した後の、自己の生き方、思想のあり方の、再構築した結果が見えている、ということだ。だからこそ、不安を怖れてはならないし、不安感に伴う後味の悪さも同時に引き受けなければならない。それが、人がこの世界を生き抜くための大切なレッスンだからである。さあ、みなさん、生き抜きましょう!不安を抱えながら、ね。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○拡散と統合に関する雑感

2011-02-02 10:54:36 | 哲学
○拡散と統合に関する雑感


まずは、人の内面に関する考察から。人の思考のあり方は、あるものごとについて考えたとすると、まずは、いくつかの異なった発想が頭の中を分散しながら、そのいくつかの分散した考えが、不統一に脳髄の中を駆けめぐる。みんなそうなのである。事の初めから考え方がまとまっていることなどまずないだろう。そして、このようなプロセスを、日本語では、逡巡する、というのである。そもそも人の思考とは、このようにしながら、あるひとつの考え方に収斂していくのである。人間の知恵とは、眼前に乗り越えるべき壁があるとすると、いろいろな試行錯誤、これを思考の分散段階とするなら、この分散の過程で、さまざまな発想が思い浮かぶ。そして、発想を統一出来るときに、人は目の前の大きく高い壁を乗り越えることが出来るのである。これを思想の統合の成果と云って差し支えないだろう。


これをフランス現代哲学用語で云うなら、思想の再構築ということになるだろうが、フランスの哲学は、ある意味、もっと過激であり、思想を再構築する際に既成の思想、価値観を一度ぶち壊す。再構築というのは、あくまで破壊の後に行われる思想的行為なのであり、お役御免の哲学などは、いったん崩壊させて、新たな思想を再構築する、というのである。無論、このプロセスにおいて起こり得るのは、かつては、修正主義として批判の対象になったものだが、マルクス思想と比較するとフランスからはじまった現代思想の思想の確立に関する方法論は、屁理屈づきなフランス人の感性によれば、修正主義もあり、ということになるから、フランス現代哲学は過激に見えて、その実、案外懐が深いのかも知れない。

さて、日常的な次元における、逡巡する、という概念についてだが、僕の考えでは、人間、多いに逡巡すればよろしいのであって、行ったり来たり、行きつもどりつ、というのは、人の考え方として当然のなりゆきだろう、と思うのである。その意味では、日本の仏教思想は、人の思想的な逡巡を、迷いという概念で否定してしまうので、ここにはウソがあるだろう、と思う。迷いを超越して、無我の境地に入るというが、これでは日常性からの離脱という行為がついてまわるのは当然である。だからこそ、仏教思想の中には、日常を棄て、修行と称して、迷いを払拭するために狭隘な仏門という檻の中に自らを閉じ込める禅的修業がある。修行と云えば聞こえはいいが、日常生活を極端なストイシズムの中に封じ込め、非日常性の中に安住するのであるから、そこで得た高潔?な思想は、狭苦しい檻の中でしか通用しない代物でしかないのは必然なのである。そもそも人間的なあらゆる欲動を抑止した生活を修行というような逆立ちした逃避には、日常性の中で生起する難題を解決する回路がそもそもないのである。僕の発想では、座禅的修行などは、日常の中で行き詰った感情を、ほんのいっとき非日常の中に置いて、カタルシスを味あわせるがごときの、ゴマカシにしか思えない。禅的ストイシズムの修行の只中にいる雲水さんが、夏のクソ暑きときに、クーラー、ガンガンに効いた喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいる姿は滑稽だが、ある意味、正直でよろしかろう、とも思う。ついでに言わせてもらうと、禅宗以外の宗派が、人間の苦悩と対峙出来るとは到底思えない。だって、彼らは、世襲制の中で胡坐をかいているし、税金は免除されているし、銭金にはとんでもない執着を持っている人たちが多いので、まったく信用出来ない。その他の新興宗教も集金マシーンのごとくに、人の内面的な弱みに付け込んでは、銭金をくすね取るわけで、こういうのは、信用出来ないという域から逸脱した、殆ど詐欺的集団だと僕は思っているのである。


この世界には、絶対者や超越者などいない。頼れるのは自分だけだ。また、自分で鍛えた思想だけである。その思想の彷徨の果てに繋がった人間の力の集合体としての人間相互の力である。その意味で、人は、自己の思想を鍛える場合、思考の拡散を怖れてはならないし、むしろ、拡散から統合への道のりを歩いてほしいのである。その結果のあとにしか、ほんものの人間の関係性などは生まれないと考えてしかるべきだ。人間の関係性の構築にも同じ種の拡散と統合の理念はついてまわる。言わずもがなだが。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃 

○異化する言葉

2011-01-24 11:35:48 | 哲学
○異化する言葉

もはや生よりも死の方が断然身近な概念として受け止められるようになって、それでも、やはり自分の思想のあり方についてはどこまでも貪欲ではある。言うまでもないことだが、思想の源泉は言葉である。言葉を紡ぎ合わせることで、思想という、あるまとまった考え方、そしてその考え方をもとにした行動様式が定まってくるというものである。と、このように考えながらも、いささかのとまどいが隠しようもなく裡に在ることを告白しなければならないだろう。


それはどういうことか、というと、考えつめて成立したかにみえる思想たるものにも、その思想をかたちづくっている言葉そのものに対する違和感を払拭出来ずにいる自分が、やはりゴマカシようもなくいるのである。たとえば、こんな想像をしてみる。


自分はもはや死の床にいる。厳密にいえば、失敗だらけ、後悔だらけの人生であっても、何とかそういう気分を抑え込んで、ああ、自分の人生もまんざらではなかったとムリムリに思いこんだとしよう。そして、恐る恐る発話してみる。「自分の人生もまんざらではなかった」と。あくまでこっそりと人に聞こえぬように、だ。あるいは、もっと調子にのって、「自分の人生に生きた意味があった。よく頑張ったと思う」などと呟いてもみる。死を前にしての戯言だ。これくらいは許されることではないか、と開き直ってもみる。


想像はさらに広がっていく。死の床で、許容範囲ではないか、と開き直って密かに呟いた言葉は、数日繰り返していれば、何となく確信めいたものに変質してくる。そういうところへ数少ない友人の一人が、もうこいつは助からんな、という想いを笑みに換えながら、僕に言う。「おまえはよくやったな。おまえはよく頑張って生きてきたと思う」と続け、さらに無意味な言葉で締め括る。「だいじょうぶじゃあないか、顔色もいいし、よくなるよ」なんてね。まあ、彼が口に出来るのは、こういうことでしかないわな。感謝こそすれ、テメエ、いい加減なことを言うな!なんてとり乱した態度など死んでも言えない。ああそうか、想像の中にしても、僕は間もなく死ぬのであった。かと言って、どうでもいいや、とはいかない。人生の最期に立ち至って、もはや友人、知人に対する非礼はいけないから。


問題は、友人の言葉を聞いた瞬間から、自分の体内で化学反応のように生じる言葉に対する違和感(それはむしろ自分がこっそりと発した言葉に対するものだ)をどのように自分の脳髄の定位置に落としたらよいのか、ということである。自分で納得したはずの言葉が、他者の言葉として聞いた瞬間から、自分の言葉の内実が、限りなくどこかへ逸脱していくのを如何ともし難いのである。それは、激しい磁場の中で、発話された自分の言葉の意匠そのものが変質し、無化され、なんの実体もなくなってしまうような空虚な気分なのである。換言すれば、自分の言葉が異化されていくのである。

言葉ほど人間にとって自己の存在理由を規定すべき大切なツールは他にないが、しかし、言葉ほど人間の想いをその根底から裏切るものもない。だからこそ、人は飽きることなく、生の、あるいは価値観の、はたまた世界観の規定を、言葉という手段を使って、何としてでも思い定めようとするのではなかろうか。その試みそのものが、定義したその瞬間から、逸脱し、言葉そのものの意味が異化されていくのを承知の上で。やはり、現実の死の床では、「オレの人生など所詮こんなものか」と自嘲まじりに呟くしかなかろうな。そう思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


    

○生の物語性について語り得ること。

2011-01-03 23:47:24 | 哲学
○生の物語性について語り得ること。

人は、いま生きていることすら、言葉にして規定することがとても困難なことであることは、たぶん表現者という立場を自覚的にとらまえ得るとするならすぐにわかることだ。まず、事実とは、ひと言でいえば、ありのまま、というありふれた表現がすぐに想起されるのだが、客観的な立場に立ちきったとして、いざつい先ほどの出来事を<ありのまま>に書き綴ろうとすると、もはやそこには文字通りのありのままなど、どこにも存在しないことが身にしみてわかる。

人は、言葉という表現手段を手にしたその瞬間から、<ありのまま>の中に含蓄される虚構性という存在に気づかないではいられないのである。敷衍して言うと、人の言動とは、言葉で言い現そうとすれば、必然的に物語性というファクターを内包せざるを得ない。無論日常語で言うところのウソ、という単直な概念ではなく、誤解を恐れずに言えば、事実とは<ありのまま>に表現しようとすれば、その瞬間から事実そのものから逸脱していく宿命性を背負っている、というのが僕の伝えたきことの原型に最も近いのかも知れない。

このような考え方に立脚するならば、僕たちが一般に事実だと認識していることの殆どが物語性というファクターを抜きにしては考えられないものだ、ということに気づかざるを得ないだろう。敢えて書きおくが、僕は断じて不可知論者ではない。そういう短絡からは、これを読む人は自由であってほしいのである。

人が生きるというのは、自己の物語性そのものを生きていることと同義語である。換言すれば、人は現実という虚構の時間の中を浮遊する存在なのである。したがって、人生におけるリアリティ(reality)とは、常にアンリアル(unreality)と通底している。たぶん、人が生の旺盛期を夢のごとくに終焉したことに何ほどかの違和感を感じ、過ぎ去った自己の生の時間の総体を認識出来ず、老いの前で立ち往生するごとき戸惑いを、思想的に内面化できるのかどうかで、その惑いそのものを、生の充溢感へと昇華し得る可能性を獲得できる、と僕は思う。また、そのように振る舞いつつ、生の終焉へと向かいたいものだ、とも思う。これが僕の生きる覚悟であると声をひそめて告白したきことである。今日の観想として書き残す。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○言葉は、思想に先行する。

2010-11-10 10:59:11 | 哲学
○言葉は、思想に先行する。

一般的な解釈として、僕たちが何かについて考えるとき、ある考え方がまずあって、それを言葉にすることによって、一貫性のある、思想と呼び得るものが構築されると思っているが、実はそうではない。僕たちの思考とは、まず言葉ありきなのである。言葉が発話されて、そのあとに思考が生成されるというのが、構造主義的な言語論の考え方である。言語論の枝分かれは甚だしいくらいのものだが、この種の本質的な捉え方に関しては、たぶん、どのような言語学者にも共通しているものだと思う。無論、補足はつく。まじめな言語学者、研究を怠らぬ言語学者という前提つきの補足である。

表層的な日常生活言語の代表格として、ジャーナリズムを挙げるなら、ジャーナリステックなものの考え方は、事象ありき、その事象に対する考え方ありきから、言葉の存在を認めることになるのである。ジャーナリストほど、自らの書く記事について、言葉の存在意義をはき違えている人々はいない。彼らはあくまで、己れの思想から、起こり得た事象の解釈をしていると思い込んでいるから、言葉の重みを認識しているとは到底言い難い。言葉と思想との位置づけが逆転している分かりやすい例である。ジャーナリストたちが、事実報道をしているかに見えて、実は限りなく事実とかけ離れた報道にのめり込んでしまう危険性を孕んでいるのは、単なる事実誤認という単純な問題ではなく、問題の本質はもっと深いところに在る。繰り返すが、それは、言葉と思想との次元の逆転現象から起因するものである。

こういう意味で、言葉には力がある。もっと言えば、言葉そのものに、力があるのである。ある母語の使い手が、母語の精緻な文法的な構造を学び、理解したところから意図的な言葉が発せられる。そうであれば、当然に、発話された言葉自体に、言語の構造的枠組みが備わっているはずである。言語的構造なき思想など存在しないのだから、言葉が思想に先行するという意味が分かってもらえると思う。言葉というものに興味を持っている人ならば、バイリンガルの人たちのことを羨ましく思うこともあるだろう。しかし、よく考えてみると、バイリンガルの人たちというのは、母語としての言葉の構造を学び、それを自己の中に意図的に組み入れる以前に、二つの言語を駆使出来る環境に置かれたわけだから、当然、マイナスの要因も生じるわけである。いくら意識的に二言語の構造的な約束事、それを文法と言い換えても差し支えないが、つまりは、文法、すなわち、二つの言語構造を同じ次元で身につけることは、まず不可能なことだから、二つの言語を自由に駆使しているかに見えて、その実、彼らは、各々の言語の表現形式の中に、微妙に異質な要素を持ち込むことになる。微細な異質性、それをはっきりとは指摘し難いが、しかし、バイリンガルの人々が発話する言語のどこかに、やはり否定し切れない不自然な要素があるのはそのためである。すなわち、言語の構造的な意味を深いところで諒解する意識なしに獲得された言語運用の力には、本質的な限界性があるということなのである。言語における天才性をもたぬ限り、バイリンガルの人々における思想構造のあり方は、言葉の運用力に反比例するかのように、脆弱なものにならざるを得ない。

繰り返すが、言葉が発話されてのちに、思想が構築されるのであって、その逆は存立し得ない。しかし、その前提となるのは、発話され得る言語の構造が、意図的、意識的に発話者が自己の内面にとり込んでいる場合において、という前提つきである。これを、言葉と思想の関係性との、ある断面的結論としたい。

推薦図書:「闘うレヴィ・ストロース」渡辺公三著。平凡社新書。レヴィ・ストロースの入門書としては、最適の書だと思います。構造主義という思想を味わってほしいものです。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃

○物事を普遍化あるいは一般化することの重要性について想うこと。

2010-10-16 21:46:07 | 哲学
○物事を普遍化あるいは一般化することの重要性について想うこと。

この世界で生起する出来事のひとつひとつは、あくまで個別の問題なのであって、たとえその様相が似ているかに見えても、内実は生起する事柄の数だけ存在する、と考えるのがリアルな世界の捉え方ではなかろうか。だからこそ、人は他者との間に、その関係性がいかに親密なものであれ、ある種の違和感を抱いてしまうのである。そこには、どうしても埋まらない、狭いが、深きクレバスが横たわっていると考えれば、人間関係における不調和のあれこれを考えるに当たって、とりとめもない孤独感や孤立感に苛まれることもなくなるだろう。翻って考えれば、これこそが、人間存在に内在する自=他という関係性における不全感の実体でもある。だから人というのは、互いに分かり合えるようでいて、いったいどこに互いに諒解し合った到達点があるのか、ということで思い悩む。さらに言うならば、人は、元来、個としての存在として、この世界にひとりひとり屹立しているのであり、個と個が寄り集まって、集団を形成するかのごとき安逸な集団の定義や、社会というものの定義をしてしまうから、ふと我に返って自己の内面深く、存在の意味を自問した瞬時に、深い暗黒の世界が横たわっているということに気づき、怖れおののくのである。

出来事の個別性についての観想は、上記に述べたとおりではあるが、しかし、だからといって、人間は、個の中に閉塞したまま満足出来る存在でないのも動かしがたい現実である。もし、個としての人間が、さまざまなジャンルにおいて、他者とのむすびつきを求めるとするなら、どこまでも自己の個別的な問題を、自己の言葉でしか語り得ない様態のままに放置している限り、人はいつまでも孤独の淵に居続けることになる。したがって、同じ状況下にあれば、人は好むと好まざるに関わらず、必ず同じ結末に直面するのである。ならば、個としての人間に生起した物事の解釈は、どこまでいっても個の思想として収束してしまうものなのだろうか?無論、このようなことも起こり得るし、敢えて酷薄なことを言えば、個として閉じてしまった思考回路とは、実質的な人間の死と同義語だということだ。そこには、いかなる意味においても、思想は収斂していくだけの存在であり、拡散、発展、飛翔という回路が開けてくることがないからである。

それでは、生に繋がる思想のありようとは、いったいどのようなものなのだろうか?あるいはどのようなものでなければならないのだろうか?まず気づいておくべきことは、人の思想とは、本来は自己の内面へと収斂されていく。これを思想の内面化というが、多くの人は、内面化された己れの思想を、自分独自の人生譚という枠組みの中に閉じ込めてしまいがちである。昨今流行りの「自分史」という自己の人生譚が他者の胸を打たず、自己閉塞的な存在のまま、ごく限られた嗜好の持ち主にしか諒解出来ないものになり下がるのは、己れの思想が内面化されたままになっているからに他ならない。

人が何がしかの問題に対峙し、その問題から学びとった出来事や、そこから抽出された思想を、内面化させ得なければ、そもそも思想形体としてまともなものにはなり得ない。だから僕は思想の内面化そのものを否定する者ではない。むしろ、思想の内面化をより深度のあるものにする必要性を認めるのである。敷衍して云えば、内面化なき思想とは、内実なき思想と等価であるからだ。さて、ここからが、知性の力技ともいうべき、内面化された思想を普遍化、あるいは一般化するための意味についての考察である。

あるひとつの現象の思想的な意味を内面化させてのち、他者と繋がる言語回路、すなわち内面化された思想を、自己の存在理由の次元にまで引き上げる意思を持って再び自己の表現で言語化し直すこと。ここに内面化された思想を他者の言語回路へと誘因し、他者との共有し得る思想的エナジーを創造出来る可能性が生まれ出てくるのである。さらに言うなら、このような思想的な営為は、世界に対して開かれているのであり、当然のことだが、その思想そのものが、他者に向けて拡散し、発達・発展し、さらには飛翔し得る可能性を孕むのは必然であろう。この意味において、思想の普遍化・一般化とは、思想の単なるカタログ化を意味するのではなく、思想の飛躍と発展に寄与するものである。人間に未来があるとするなら、このプロセスを意識化した思考回路を、僕たちがいかにして我がものとし得るか、ということにかかっているのではなかろうか。そんなことを考えているこの頃である。

推薦図書:小説世界において、上記したことを作品という土壌で自己の思想を拡大していく力ある作家として、人気作家のポール・オースターの作品群をお薦めします。翻訳が文庫本でたくさん読めますから、どこからでもどうぞ。ポール・オースターの作品がただ、おもしろいと感じるのもいいのですが、もし、その位置づけをしっかりとしたいのであれば、「ポール・オースター」彩流社刊を参考にしていただくと、彼の作品がさらに意味あるものとして胸に落ちると思います。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
 


○記憶という装置

2010-08-23 23:02:31 | 哲学
○記憶という装置


人間の記憶とは興味深いもので、たとえ、過去の出来事が自分に深く関わることであれ、その事実を正確に辿り直せるのかというと、実はこれがなかなか困難なことが多い。過去の出来事は、記憶の中で、過去に起こったままに再現することは、まず100%不可能なのである。楽しい、つらい、哀しい、うれしいなどという感情とともに思い起こせるのは、せいぜい過去の断片的な記憶のカケラのごときものである。僕たちはしばしば、過去の断片から、過去の総体を漠然とした抽象的概念として、思い起こしているに過ぎない。それらが、あたかも具象的で、現実感をともなった出来事の結果として、脳髄の中に甦るような錯誤に陥るのは、それはある種の自己救済という思念と無関係ではない。このように語ると、絶対的に否定する人々もいることだろうが、しかし、過去の出来事がいかに苦渋に満ちたものであれ、人間がこの世界を生き抜こうとしている限りにおいては、いかなる負の感情を惹き起す過去の出来事であれ、それらは、確実に脳髄の中で幾分かは加工され、過去の現実として脳髄に刻印されんとした出来事に変容を加える。おどろおどろしい過去の現実も、思い出したくもないはずの出来事も、時として思い出してしまえるほどには、柔らかなベールが被さっているのである。それが記憶という変容装置の正体ではなかろうか。

この意味において、記憶という変容装置とは、生を枯渇させるだけの負の力学が働くような過去の現実を、いまという時空に、負を少なくともゼロベースに、あるいは正へのベクトルに転じるものである。

 
過去の出来事をいくら言葉を尽くしても、いま、ここに、それをあるがままに再現することは、原理的に不可能なのである。少なく見積もって、再現されたものは、過去の出来事そのものではない。その意味で、人間の記憶とは、常に記憶の底の現実を再構築しながら、増殖させる。あるいは委縮させる。繰り返すが、記憶の再構築には、過去の不幸や不毛な現実を、さらに過大にすることもあれば、過小にしてしまうこともある、ということである。いずれにせよ、どちらの方向も、過去そのものの姿を変容させることで、過去に起こったこころの痛手の実質を別のものに換える仕組みが出来あがっている証左であろう。言葉だけが過去を変容させるのではない。たとえば、映像でさえ、それが映像としてフィルムの中に焼き付けられたとしても、その現実を再現したとき、現実との奇妙なほどの解離感があるのを感じたことが多々あるのではなかろうか。目の前で、不条理に人が死ぬことの衝撃も、それが映像として撮られ、残されたフィルムを再現したその途端に、人の死さえ、その生々しさを喪失し、あたかも絵空ごとのような感覚を残すだけである。昨今の海外のクーデターで銃弾の犠牲になった市民や兵士が、死した現場から引きずられていくとき、それは人間の躯というよりも、一つの物体としての存在としてしか、僕たちには感じられないのである。過去の出来事が自分に関わるものでなくとも、このような現実の変容という現象が起こる。たぶん、人はこの種の事実の変容を経なければ、いや、もしも、事実が事実のままにいつまでも己れの裡に留まっているのであれば、人は生きる勇気、生きる覚悟、生きる意味自体を、過去の不条理によってうち砕かれるのかも知れない。

記憶という装置という観点でものを見て、もう一つ気をつけなければいけないことは、僕たちの裡にある記憶の意図的な隠ぺいという行為である。前記したように、記憶は、自ずと変容するものである。しかし、それと同時に、人間の意思によって、変容した結末たる記憶の集積を、さらなる負の要素を生へと転じるために、敢えて人は自らの記憶を隠ぺいする。同時に、いったん隠ぺいされた記憶は、さらなる隠ぺいを呼び起こし、極端な場合は、生起した現実とは、まるで異なる、いま、ここ、が存立し得る。僕のこの記憶にまつわる考察は、あくまで生きる知恵としての、記憶という装置に関するそれである。なぜか?人間はどこまでも肯定されるべき存在であるべきだと、僕はいま、考えているからである。いかがなものであろうか?

推薦図書:「ぼくらはみんな閉じている」小川勝己著。新潮社刊。記憶という装置が広がりを持たず、閉塞していく可能性の中で物語を紡ぎ出すとすれば、小川が描く9つの短編集は、こころの壊れを余すところなく表出した作品群だと言えます。愉快な読後感ではありませんが、読む価値はあると感じます。お薦めの書です。ぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた   
長野安晃


○過剰という概念性について想うこと

2010-07-23 13:24:15 | 哲学
○過剰という概念性について想うこと

書き進める前に、明らかにしておくべきことを書き記す。僕が、過剰という概念性について書き綴るとき、世間知で云うところの、過剰に対する反意語を適度、あるいは適量、または欠如・欠落という概念性を問題にはしないし、また、過剰の反対概念のベクトルとして、このような規定語を想起してしまうと、僕の論考そのものがそもそも成立しないことを明記しておかねばならない。

人間にとって、過剰という概念性は、たぶん生に纏わる不幸と深いところでむすびついている。過剰な愛は、家族愛に関して云えば、多くの場合、愛を与える側も与えられる側も、かたちを換えた互いの依存に陥る可能性が大きい。過剰な金銭は、人の価値観を金銭という基準で推し量ることになり、人間に備わった精神性を見失う。過剰な性は、人間から愛という崇高な思想を奪い取る。このとき、性は、即物的で、人間的な絆の深化の役割を喪失する。また、過剰な飲酒や薬物、過剰なギャンブルへの傾斜がもたらす結末については、もはやここに書き記すこともないだろう。

前記した適度とか適量という概念性はそもそも人間によって、まちまちだし、またその人をとりまく環境によって変化するものであるから、相対的と云えば聞こえはいいが、そもそも規定不能な概念性なのである。人間は規定不能な概念性を耳にしても、心が反応しない。関西弁で云うところの「ぼちぼち」だとか、関西弁という範疇を取っ払った、「そこそこ」という表現を聞いて、感情が動くことはない。もっと根っ子を探ると、人間の感性は、この種の曖昧語を耳にすると、不快感を抱くのだろうが、曖昧語は生活言語として定着しているものが多く、それらの含蓄する毒は薄められて、単なる挨拶語として流通しているだけのことだ。厳しく言えば、この種の生活言語としての曖昧性は、人間の言葉にならない喜怒哀楽の感情表現よりも数段劣ると僕は考える。

ものの考え方として、それでは過剰さと豊饒さとの違いはあるのか、という問いかけは当然にあることだろう。答えは勿論イエスである。私の中の両者の区別は、こうである。
過剰という概念は、常に人間の意識を削ぎ落す。それが負のベクトル、つまりは、不足や欠落という逆立ちした過剰といえども、やはり現象として現れた過剰のかたちとは、意識の鈍磨をともなった不幸なかたちである。それは既述したとおりの現象として立ち現れる。それに対して、豊饒という概念とは、思考のベクトルとしては、常に上向きの、人間にとっての生の可能性を広げる可能性として現れ出ると言っても過言ではない。たとえば、豊饒に纏わる生活表現だけを俯瞰しても、いくつかの表現のあり方から、豊饒という言葉が、新たな価値意識を含蓄していると思われるのである。たとえば、豊饒なる自然であるとか、農作物の豊饒な実り、豊饒な海の恵み等々。これらの言葉には、自然とともに、いや現代においては、世界とともにと言い換えた方が妥当だろうが、常に人間の疲弊しつつある個性に瑞々しい力を吹き込むエネルギーの象徴的な姿が感得できるはずである。

人間は、生きているかぎり、生の平坦さの過程で、豊饒さという明るい可能性に満ちた節目に遭遇する可能性と伴に、言葉のジャンルとしては同じものに分類されるであろう、過剰さという言葉との遭遇の可能性、しかし、概念性としては両者はまったく正反対の、人の生に対する正負の影響力を受けつつ、生のあり方を紡ぎださねばならないのである。人々が、自身や他者の生き方を捉えて、人生に対して前向きだとか、後ろ向きだとかと称する根底には、概念上の過剰さと豊饒さとの桎梏が在る、と考えるべきなのではないか、と僕は近頃思うのである。愚論なのかも知れないが、敢えてここに書き残す。

推薦図書:「エロティシズム」ジョルジュ・バタイユ著。ちくま学芸文庫。生の豊饒と過剰さにこれほど、本質的に拘った思索をなし得た思想家はバタイユ以外にはいないと言っても過言ではありません。バタイユの文学作品から入ると、読み方によっては、生や性に対する不浄な気分を持ってしまう可能性がありますが、やはり、彼の小説の作品群を読む前に、バタイユの思索の深さをぜひとも味わっていただきたいものです。良書だと思います。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃

○問題解決能力―エセ実証主義との決別として。

2010-04-21 13:45:04 | 哲学
○問題解決能力―エセ実証主義との決別として。

人が生きていく過程とは、言葉を換えて云うならば、生のそのときどきに襲ってくる諸問題、それが人にとって、生き死に関わるような重大なものであれ、日常的な瑣末なものであれ、生の眼前には、常に障壁が立ちはだかっている。人が生きる、とはこのような障壁との邂逅と対峙の際に、どのような姿勢をとり得るか、という問題と無関係ではない。もっと直截的に云うと、乗り越えるべき問題などが押し寄せることのない、平板で何の変哲もない人生などは、生の名に値しない、ということである。

人生という行路を、そのときどきに訪れる障壁を乗り越えつつ生きる姿勢を生の基本とするならば、生に纏わるありとあらゆる負の要素を避けることなく、むしろ自己の課題として引き受けるべきだろう。誤解のないように云っておくが、僕がこのように書くからと云って、人が自己に課せられる諸問題について、全き一個の人間としてすべてを解決するべきだ、などと主張しているのではない。ここには、当然自他という概念性が入る。いや、自他という概念性が入り得なければ、人は常にドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公のように、閉塞した空間の中で無意味だと知りつつも、虚空(もし、そんなところに虚空と云うものがあるとして)に向かって己れの絶望の雄叫びをあげなければならないハメに陥る。このような事態を、僕が生の問題解決能力には含めはしない。哲学的思弁ならまた別の話だけれど。

世界が混沌とすればするほど、人は世界そのものの成り立ちを単純化したがるものだ。カオスの中で人はなすすべなく、絶望の淵に立ち、自死することも珍しくはないこの頃である。世界で生起する事象の全てを単純化する手の込んだ実証主義が、昨今の脳科学というジャンルである。脳科学という、人間の全ての活動、あるいは全てのアパシーは、脳内の分泌物質の質量の問題とすりかえられる。人間の抱き得る希望も、絶望も、虚無感も、その他のあらゆる感情が、生理的機能の正常と異常という単純な二極化へと人を導く。しかし、この種の実証主義からは、人間の苦悩や絶望という事態を今世紀のペストとも云うべきうつ病の結末か、あるいはそのプロセスとして説明されるだけだ。そこに何らの救済の見込みはない。煎じつめれば、脳科学とは、21世紀における科学的に粉飾されたデマゴギーである。

人は、このカオスの中でこそ、自らの精神の内奥へと分け入るべきなのだ。そして、自己から目を逸らすことなく対峙することである。他者という概念が入って来るのはその後のことでなければならない。この過程を軽視すると、他者の存在は、自己の内面を映す鏡とはならず、単なる依存の対象となるばかりである。この時点に立ち至ったら、もはや脳科学のごとき生理的実証主義など入り込む余地はないし、また生理的実証主義の排除こそが、問題解決能力の必要十分条件だからである。みなさん、大いに自己の内奥へと深化しようではないか!


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○恋愛のディスクール

2010-04-08 21:42:01 | 哲学
○恋愛のディスクール

人は愛する対象者に、常に新たな価値意識を抱き、その人との関係性において、常に固有の考え方が芽生えるものだと思っているだろう。すなわち、恋愛とは人の使い古した感性を再生し、再構築する可能性に満ちたものであると思わせる力が、愛という行為に内在することを予感させるものではないか。つまりは、恋愛には、既成の価値観を転覆させ得るだけの革命的な威力があるのではないか、と人は明確な言葉にするかどうかは別にして、皮膚感覚の領域で諒解してはいまいか。

しかし、恋愛においては、上記のごとき新たな価値の創造、あるいは、価値の再生や再構築とは無縁のプロセスを辿らざるを得ないファクターに満ち溢れている。恋愛とは、むしろ既成の価値観の中に収斂するような、堅牢な制度の維持のためのエネルギーで成立する思想とも云えるものである。角度を換えて云えば、恋愛のディスクールとは、現行のあらゆる社会的な制度を強固なものに変えていくための約束事と見るのが妥当な価値判断ではなかろうか。したがって、人は無意識の領域で、恋愛という言動を通じて、旧制の価値観を保守する。それが恋愛の社会的言説であると云える規定である。

若者たちは、恋愛に纏わるあらゆる男女の行為に、変革の意思を感じとるのかも知れないが、愛のめくるめくような喘ぎの結果生み出されるのは、現行の社会を永遠ならしめる生命の誕生なのであり、それが、たとえ、変節した男=男の愛であれ、女=女の愛であれ、具体的な生命を生み出すことはなくとも、愛の行為とは総じて元来保守的な領域に属することを否定するものではない。ミシェル・フーコーの思想を援用するまでもなく、恋愛も、フーコーが看破した、学校・病院・監獄という現行制度維持のための、人間的行為の集積の一変種であることに変わりはない。恋愛のタチの悪さは、男女あるいは男男あるいは女女における愛の行為が、価値の変容たらしめるだけのエネルギーに満ち溢れているという錯誤を感じさせるところである。愛は決して人間の意識を革命的に変容させるものではなく、人間の意識を保守化・化石化させるものである。

しかし、このような考え方にもやはり前提がつく。愛が保守的であるのは、愛の保守性を意識しないからであって、それを意識化した瞬間から、愛には強固な既成の価値観から常に逸脱する可能性と直面するエネルギーが内包される。もし、恋愛に意味があるとするなら、まさにこの時点からのはじまりにおいて、である。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


○現代における「生成」とはどのようなものなのか?

2010-03-17 17:20:13 | 哲学
○現代における「生成」とはどのようなものなのか?

ロジェ・マルタン・デュ・ガールなどを近頃読む人はかなりきとくな方だ。彼の作品については、かつてはいろいろなものを文庫で読めたし、確か岩波文庫からは「生成」と称するいかにも時代がかった小説が出ていたと記憶する。あるいは哲学的小説と言ってもよいものだった、と思う。残念なことに、マルタン・デュ・ガールは、現代では忘れられた天才作家という範疇に入るようである。たった一つ読めるとすれば、白水社(なかなか気骨のある出版社だ)から大長編の「チボ―家の人々」が出ているだけとなった。まあ、マルタン・デュ・ガールに関しては、時間を持て余すようなときが来たら「チボー家の人々」を読まれんことを。ただし、何巻もありますよ、念のため。

さて、「生成」とはいかにも魅惑的な響きを持った言葉として僕の数少ないボキャブラリーの中に廃れることもなく鎮座しているタームとして、あるいは概念として確実に存在するのである。すべてが無の状態ということは人類史の中では起こり得ないのあってみれば、僕にとっての生成とは、既成価値観の破壊とその再構築の過程で生まれ出る新たな概念、あるいは新たな価値観を指して、生成という概念として諒解しているのである。したがって、生成とは必ずその過程に、古い考え方を根底から覆す動的な要素が潜んでいる、かなり過激な用語ではないか、と僕は認識している。

社会的・経済的・文化的・政治的糞詰まりのごとき現代において、意義ある生成を成し遂げるためには、いったい何が、あるいはどのような変革が必要なのだろうか?端的に言ってしまえば、それは、世の中に蔓延っている保守主義の破壊と保守主義を超える、常に動き続け、変化し続ける概念に支えられた思想の構築である。無論、世の中に蔓延しているということは、個としての人間の心性を腐食している保守主義をまずはぶっ壊さない限り、新たな価値の地平など見えようはずがない。

僕たちに必要なことは、現代の不安定な社会構造の安定化を望むのではなく、不安定な社会構造の中にあっても、不安定さを凌駕し得るだけの革命的思考回路の創設が求められているのではなかろうか。革命的思考回路といっても、公安警察が警戒するようなものとはまったく違う。何故ならこの革命的思考回路とは、現体制の社会を何らかの暴力革命によって、転覆させるのが目的なのではない。そうではなくて、それは、僕たちの裡に巣くっている保守的思想(現代において、もはや何を保守するのかすら分からなくなっているはずである)の編み換えを意味する。改めて言うと、保守的思想とは、あくまで保守すべき価値のある土台を守ることである。しかし、現代は、かつては土台としてすがるべき実体のあったものがことごとくその実体を喪失し、不安定な様相の中で粉々になっているのである。つまりは守るべき土台さえないのである。それが、現代という時代性である。日本政治における保守も革新も思想がないという意味においては、同質である。状況によって、保守から革新へ、革新から保守へと恥も外聞もなく変節する。

僕たち現代の日本人にとっては、思想に対する信頼感が欠落していることに対して、危機感を抱かない性向が当然のごとくに認められているが、しかし、人間の本質とは、パスカルの言葉を借りるまでもなく、考える葦なのである。考える葦あるいは考える土台とは、思想である。いま、僕たちは、思想の質を問われているのである。言葉どおり、概念どおりの生成に繋がる思想の確立の可能性を問われているのである。

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長野安晃

生の周縁的なるものについての考察

2010-02-14 01:01:07 | 哲学
○生の周縁的なるものについての考察

生にまつわる周縁的なるものについての考察なのだから、まずは生の本質的なありように対する僕なりの考え方を開示しておかなくてはならないだろう。本質的なるものに、くどくどしい説明も、執拗にすぎる例示も必要ないだろう。さて、僕の中の生の本質とは、ひと言で敢えていえば、人間が生きていくための雑多な事柄に関して、単純に歓びを感じとれるか否かということにかかっている。それを幸福の原理あるいは、生の本質的なるものと規定しておくことにする。それはかつて、ホイジンガが喝破したように、人間の営為の全ては、「遊び」の概念規定で包括し得るものである、という考え方に根拠を置いている。その意味において、子どもの遊びは、遊びの原質のごときものと考えれば分かりやすいと思う。

人間は成長するにつけ、さまざまな知恵をつけていくはずなのだが、同時に、その知恵の内実は、生の本質―「遊び」からどんどんと遠ざかり、周縁的なものばかりに心を奪われる傾向があるのは、切ない現実である。こういう過程を辿れば、生は歓びとして感得されるのではなく、逆に生に纏わる苦悩の連続体としてしか認識出来なくなるのは当然の結果と言える。生きていくためには仕事で生活の糧を得なければならないわけで、仕事はつらくて無理矢理にこなさなくてはならないものになり果てる。たとえば、職場の人間関係がよろしくない、と感じるのは、関係悪化した人間関係があるのではない。仕事そのものが義務化し、十分な歓びを感じられないから、本来円滑であるはずの人間関係に関心の度合いが深まり、悪くすると、そこにいじめのターゲットを捜すか、あるいは、いじめのターゲットにされる場合があるということなのである。職場における人事派閥なども、日常の仕事の業務がつまらないから、敢えて派閥という、出身大学であるとか、その他諸々の、人間の絆を創るにはあまりにも根拠希薄な要素で簡単に群れ集うのが通例であろう。派閥そのものの根拠となるべき土台が危ういがために、そこには常に融合と離反という、相反する力学が働くのである。人事派閥においては、したがって、裏切りという行為は折込み済みの要因である。

人間が集まる組織において、避けがたく在るこのような周縁的な要素によって、生が色褪せて見えるのは必然であろう。追い風が自分に向かって吹いてくれればそこに隠微な歓びも生じようが、追い風あらば、逆風も吹くわけで、そうなると人は絶望の淵に立たされることになる。地位の喪失や、経済的破綻など、追い風に乗って楽々と生き抜いてきたと感じていた人々にとって、それらは、己れの人生の敗北を意味するかのように感じられるだろう。日本が自殺大国であるのは、何も経済不況のために将来に対する希望の喪失、リストラや出向の憂き目に遭うからということが主因ではない。そのようなことは、世界的な構造不況の産物であり、日本よりも人々の生活状況が悪化している国は数多くある。それにも関わらず、日本が何故自殺大国であるのか?

たぶん、日本人にとって、とりわけ生の本質的な歓びとは、人間の生きるという行為が「遊び」の概念で成り立っているという認識が希薄なのではないか、と僕には思えてならないのである。生の周縁的なるものばかりに囚われていると、仕事とは耐えるべきものとしか認識できなくなるし、運がよければ、出世の道もあるかも知れない、などという儚い望みに己れの人生を託し、派閥の走狗となり果てた結果の惨敗の行き着く果てが、絶望の淵の正体ではなかろうか。

人はもっと、ダンスのごとくに、躍動するべきなのだ。そこにこそ、広い意味における「遊び」の実践が出来るのである。歓びが本質に据わっていない仕事などにしがみついている価値はない。生は思いのほか短いのである。周縁的なるものなど捨て去ることである。生こそが歓びに満ち溢れていなければならない。

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人間は例外なく、壊れやすい。ただ、壊れ方の様相が異なるだけだ

2010-02-09 01:44:08 | 哲学
○人間は例外なく、壊れやすい。ただ、壊れ方の様相が異なるだけだ

僕たちは、自他の日常生活を一見すると事もなげに過ごしているかのようだが、しかし、その実、どのように気丈な人間であれ、例外なく日常性を生き抜くための精神の拠り所がなければ、まず誰もが、心の暗黒の中に陥って、立ち上がれなくなることがしばしば起こり得る。総じて言えば、人間とは「壊れもの」としての存在だと考えれば分かりやすい。いまの流行り言葉でいえば、ストレスが人を壊すということになっているが、そもそもストレスとはいったい、何ぞや?医学的定義など、もともと浅薄なるもので、あまり信憑性がない。もっと言えば説得力がない。説得力のない内実を伴わないものだから、余計簡単に人々の日常語にも組み込まれやすいという逆説も成り立つのである。

そもそも現代という時代に棲む我々人間を拘束するルールとしての制度が、人間の日常生活を円滑にさせる動機を持って登場したとしても、当のルールとしての制度そのものが、制度疲労という、日々の変化に対応し切れず、空洞化する必然性を内包した、自己撞着に陥る可能性に満ちた存在そのものなのである。人間の生活の次元における指標が、ルールとしての制度に寄って立っている限りにおいて、その中の個々の人間の精神性など、常に何らかのホツレに直面する危険性に満ちており、それが高じて、人間性そのものに、「壊れ」という現象が起こるのは当然の結末だと言えるだろう。

人間性の壊れは、決して精神疾患というかたちで現れ出るとは限らない。精神が頑丈であっても、今度は、身体の諸器官に異常を起こしたりするのだから、個としての人間の、外部からの重圧に対する耐性など、タカが知れていると認識する方が賢明である。自己の精神の、あるいは身体の強靭さを過信して、前進あるのみなどという構えでは、精神・体のいずれに現れるかは分からないが、確実に「壊れ」が訪れることになる。

ならば、どのように我々はこの世界に自己を位置付けたらよいのか?またそのためにどのような思想的な変革をやり遂げなければならないのか、という問題に突き当たって当然だろう。僕のそのような疑問にに答えられるだけの言葉が在るのか?答えはウィ、である。

東洋的思想・西欧的思想に限らず、人間の思想は、人間の限界性を超えたところをその到達点としているものが殆どではなかろうか。それは別の角度から見れば、人間存在を、心と体という二要素に分けて考えることによって、いずれかの要素を特化させることを意味する。しかし、これでは人間の本質に抗うことになり、人はどこかの時点で確実に折れる。しかし、昨今の思想上の流れからいうと、人間存在とは、心と体は一体であり、そのどちらの要素も含めて初めて人間と称することの出来るものであるという認識が広がり出したのも事実である。僕の言葉で表現するなら、心と体の合一体を称して、<からだ>というのである。

人間の存在を、<からだ>という存在形式として認識し、心と体を両者ともに大切なものだと認識することで、人は、自分を「壊れもの」としての存在であることに思い当たるのであり、「壊れもの」であるからこそ、そのことの認識を深めることによって、生きる覚悟が出来るのである。あるいは、死する覚悟が出来るのである。いずれのベクトルに向かうのかは、さまざまな要因が作用するであろうが、人は生きるにせよ、死するにせよ、自己の存在規定を「壊れもの」として認識することで、他者の「壊れもの」としての弱さを受容することが可能になるのではなかろうか。人間の生にダイナミズムという要素が加わるのは、この次元においてでしかないと僕は思うのだが、間違っているだろうか?

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

漂白される生

2010-01-28 05:09:22 | 哲学
漂白される生

この世界を生き抜き、駆け抜けることはとても困難なことなのかも知れない。僕がそう思うのは、たぶん、青年の頃からずっと、人間と人間との濃密な関係性を構築することに憧れてきたからなのではないだろうか。濃密な人間の関係性とは、当然それなりのリスクが伴う。言葉を飾ることをハナから放棄した言葉の投げかけによって、他者を傷つけ、同時に己をも傷つける。そこに自己の孤立という暗い穴が待ち受けているのもよく分かってはいる。それを一個の人間の屹立した姿などと強弁してはみるが、吐き出された言葉そのものが、虚空を舞って、散り果てるだけである。しかし、それでも僕は、生とはあくまで濃密で、他者との関係性において、自他の存在が言葉というツールによって深く交錯し、反発し合いながらも、結論的には、互いに深くきりむすんだ関係性を構築することだと考える。そこに一切の妥協はない。

人生の折り返し点をとうの昔に折り返してしまった観想とは、ひと言で表現すれば、苦い。人間がこの世界で生きるための方便とは、他者との間でうまく折り合いをつけることか、はたまた、折り合いもつかないのに、後生大事につまらない猥雑物のごとき関係性にしがみつこうとすることだ。たぶん、それをたとえて言うなら、べとべとした、いやらしいほどの甘さではなかろうか。人間が無難に生きていこうとすれば、苦さではなくて、甘き生き方にしがみつくことだろう。僕の裡なる人間としての内面の定義から紡ぎ出されてくる概念性とは、あくまで苦き苦悩の果ての、絶望との対峙そのものである。死するまで、これでつきぬけるしかもはや僕に残された生の選択肢などないに等しい。

まわりを見回してみる。そこにあるのは、自己の生の内実をひた隠しにして、舌触りのよい言葉の交通で満ち溢れているではないか。あるいは、自己弁護の雨あられ。これが人間の姿か?否である。もし、これを世間といい、世の中の生きる知恵と称するならば、それは、僕の言葉で言えば、生の漂白である。生につきものの、すべての色彩、あるいは、毒が抜け落ちているのである。今日、生は漂白され続けているのである。哀れだ。僕はそう思う。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃