ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

自由とネクタイ

2009-03-27 00:12:50 | ファッション
○自由とネクタイ

植木等が「サラリーマンとは気楽な稼業ときたもんだ~」と歌って大ヒットを飛ばし得たのは、植木等の「無責任男」としての闊達さと自由でお気楽な空気を、現実に日本の高度経済成長を支えてきた、数多くの働きバチたる無名で無数のサラリーマンたちが、自分たちを覆う不自由さを取っ払うために足繁く映画館に疲れた体を運んだ結果であると感じるのは、果たして僕だけなのだろうか?映画館のスクリーンに映し出される植木等が主人公で、主人公をとりまく会社の雰囲気は活気に溢れ、社員も役員も会社の未来を素朴に信じ、5時になればさっさと退社して、どこぞの馴染みの飲み屋でクダを巻くお気楽サラリーマン諸氏の物語が、重い荷物を背負って残業に残業を重ねている現実のサラリーマンにとっては、ある種の心理的浄化作用としての役割を担っていた貴重な娯楽映画が、植木の「無責任男」シリーズの存在価値である、と敢えて断言しておこう。勿論、会社人間と称される働き者のお父さんたちが、何とか頑張り切れたのは、会社のために働けば、あるいは会社に自分の身をささげていれば、生涯会社も自分を裏切らない、という暗黙の了解が成立していたからに他ならない。終身雇用制度とは、日本的なゆるやかな社会主義的政策として、日本の経済発展の底支えになり続けてきたように思う。

しかし、子どもであった頃、青年になった頃に、僕の目に映った現実のサラリーマン諸氏の姿はあえて言葉を選ばずに言うと、終身飼い殺し政策のなせるわざの結果とも見え、彼らのくたびれたスーツ姿に、ダサイネクタイは、まさに囚人服、ネクタイに至っては、首に縄をつけられたペットもどきに見えのだから、当時の僕は、世の中を舐めた、生意気なだけの若造だったと猛省する。世の中を舐めて暮らせるのも、企業戦士と呼称された人々が、低賃金もなんのその、終身雇用制度があるからこそ、さらに、会社のため、自分の家族を支えるために頑張ってくれたからこそ、成立した社会形体だったといまにして思う。

それにしても、まさに社会に飛び出そうとしていた僕が考えていたことは、実にたわいのない、根拠のない、あり触れた社会逃避的発想でしかなかったと思う。僕が考えたことは単純なる次のような選択規定であった。それは、ネクタイを締めなくてもいい仕事に就こう。たったこれだけのことしか考えられなかった自分に赤面するしかない、浅薄な判断に頼っていたのが、生意気だけを生きるエネルギーにしている自分の姿だった。根拠はますます単純である。ネクタイという無意味で、首縄のごときセンスのないものを身につけることなどまっぴらだ、というに過ぎないだけの理由だったと記憶する。当時のサラリーマン諸氏の身につけているネクタイは確かにダサかった。とは言え、そのダサいネクタイとは人間の自由を疎外するべき象徴的存在物などと気どって息巻いていただけの自分がいまとなっては情けない。

社会という場にどうにかもぐりこんで、しばらくは学生時代の服装のままに仕事が出来る環境だったので、僕はあくまで表層的な自由を、自由そのものと錯誤して享受していたと思われる。言うまでもなく、まったくの手前みそである。よく考えてみれば分かることだが、男性の服装とは本来、実に見栄えのしないものであり、女性が様々な衣装に身を包んでその美しさを披歴するがごとき要素はどこにもないのである。見栄えのしない男性の洋服の要素の中で、男性に許された服飾における革命的な存在、それがネクタイではないのか?という閃きが頭の中を過ぎる一瞬が確かに在った。ドブネズミ色のスーツの胸元の、小さいけれども、そこにはいかなる色彩をも付加し得る、大胆で、真っ白なキャンバスのような可能性を秘めた小宇宙が厳然と在る。ええ歳こいたおっさんですら、真っ赤な色を胸元にひけらかすことさえ出来るのである。考えてみれば、ネクタイの模様ほど自由闊達なものはないし、同じ色調のそれにも、数えきれないほどのバラエティが創りだせるのも、女性の服飾並み、あるいはそれ以上ではないだろうか?男性の服飾という不自由極まりない、まるで水たまりのような狭隘な胸元の空間の中にこそ、無限大の自由が広がっているという、皮肉で痛快な現実が理解出来なかった僕はよほどのセンス音痴であり、不可能性の中に可能性を見出そうとするがごとき、強固な意思などまるで持ち合わせていない、権力―非権力という古めかしい、死に絶えた思想のごときものに拘泥しているだけの、頑迷な青年だったと総括せざるを得ないのである。

ネクタイこそ、胸元に許された男性の、自由なる自己表現の場を創り出す見事なまでのツールである。地味なスーツに、ド派手なネクタイを組み合わせて、トラディショナルな風情を崩して見せる。これが果たして単なる服飾の自由だと言えるだろうか?ありふれた正常の一部なりとも意識的に壊してしまう密やかな意識を、僕は敢えて反抗の論理、あるいは、革命的な意識の発露と規定したい、と思う。あの細い、何でもなさそうでいて、それでいて、たった一本のネクタイが自由という概念を生み出す。人間、なかなか捨てたものではない。今日の観想である。

○推薦図書「未確認飛行物体」島田雅彦著。文春文庫。この物語は、「おかま」のルチアーノと医師笹川賢一が織りなす破滅と救済の物語なのですが、その意味ではネクタイという単なるオブジェでさえ、破滅的なる男の服飾に、密やかなる救済を与える存在であってみれば、島田の、この書は読む価値あり、の書です。ぜひ、どうぞ。

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