ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○省察(3)

2013-03-28 02:07:42 | 省察
○省察(3)

あらゆる党派的思考というものが、僕は嫌いである。どういう意味でか?それは勿論、人が自由な個人という思想的闊達さ、それに伴って襲い来る負の要素、すなわち、思想的足場の危うさと精神的な脆さを伴ってこその思想に価値あり、と僕は思っているからである。人が党派的思想に甘んずると、当然のことながら、思想は一方向へと収斂されていくものであるゆえに、考える自由、考えあぐねた末に紡ぎだされる批判精神の芽生えを犠牲にすることになることは必然である。

ならば、なぜ人は党派的思想に惹かれるのか?それは、元来人というのは、何かを構築すると、その結果はどうあれ、まったく無意味なものでない限り、構築されたものを保守しようとする心性があるからだ。このような心性は、表層的な政治的保守主義とか進歩派、革新派などの区分けに関わりなく、思想とはある到達点に留まったその瞬間から保守的に転じる命運を背負っているというわけだ。思想のベクトルが右であれ、左であれ、党派とは保守主義で一致しようとする人間の集団的な特質のようなものである。もう少し露骨に云えば、集団的ヒステリーだ。

昨今の技術革新を、その程度のありようによって、innovationといい、renovationといってもよいが、それらは、トロツキーの世界永久革命の理念と通底していると感じている人は意外に少ないのかも知れない。普遍的世界観という範疇、思想の次元の高低等々は、時代の荒波にさらわれて、完全に消失したかに見えるが、どっこい、人間とは興味深いもので、昨今の技術革新というジャンルに見事にカタチを変えて現れているからおもしろい。あるいは、芸術、もっと粗野に芸能という人々の関心と営みが、たとえそれが伝統芸術、伝統芸能の分野においても、芸術的感性が刷新されないものは、自ずと滅んでいく。ここにおいても人々の思念的本流とは、変化・変革そのものである。動かず、留まることは、存在の死を意味するのである。

と、こんなふうに今世紀を捉え返して見ると、まんざらでもなさそうである。反吐が出るほど古臭く、それゆえに保守主義の醜悪さ、進歩なき退廃が見え隠れするのが、なにを隠そう、党派的思想、党派的集団主義なのではなかろうか。つまらなさ過ぎるから、こんなものはドブにでも棄てちまおう!それでいいではないか。

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長野安晃