○春闘という残滓
かつて、と言っても、もういまとなっては何年前までを、かつて、という言葉に含めればよいのかも定かではないが、僕が30代の半ば頃、京都における春闘は、なかなかに盛大であった。二条城に集合し、各々の組合分会の、かなりな人数がデモ行進する。堀川通りを北上し、府庁前を南下し、丸太町通りを御所に沿って西に歩き、5月の陽光の中で、この頃には体はじっとりと汗ばみ、着ているパーカーを脱いで、腰に巻付け(時代が分かるなあ、変なセンスや)て市役所前まで行進するのである。
組合の役員なのだから、僕は先頭に立って分会の主張をスローガンとして掲げ、シュプレヒコールをマイクでがなりたてるのだが、ある種の高揚感は否定はしないけれども、その最中、背筋に冷たい感覚を抱きつつ、ここは自分のいる場所ではないな、という奇妙に醒めた自分の存在に気づいてもいた。これが、権力と対峙している姿では絶対にないだろう? という居心地の悪さが肩に重くのしかかってきたことを、忘れがたく僕の体全体で覚えている。デモが警察の許可を得なければ許可されないものであれ、何で警察権力に守られるようにして、労働者の権利を安全極まりないところから、がなり立てるのかが、そもそも元政治的ラディカリストの僕には考えられないウソ臭い行為だった、といまだに思っている。僕は自分の抱える分会の先頭で、殆ど後ろ向きの状態で、スローガンを読経のように唱えているので、前が見えない。当時はいまほどにペットの糞の始末にうるさくはなかった時代で、犬の糞は結構そこらへんに転がっていたのである。後ろ向きに歩く僕のスニーカーを通して、妙な柔らかい感触が伝わってきた。ヌルリとした感触。それこそが、車輌通行止めというデモ行進の権利を得た結果の、犬の放ったばかりの糞の感触だった。どこまでもその臭いはつきまとって離れはしなかった。行進しながら、自分は犬の糞に違和感を感じているのか、自分の存在そのものが犬と化して、そのことが不快なのかが頭の中で整理出来ない自分を感じていたのである。
デモの横を警察官に守られているデモ行進自体がそもそもおかしいのではないか? と思う自分がいて、こんな甘ったるい行進のどこにデモンストレーションの意味があるのか? という深い疑問が僕の脳髄を支配し続けた。なにせ、デモ行進の最後こそ、圧巻? であった。市役所前で、ジグザグデモをやっておしまいなのである。ジグザグデモを指揮している自分が情けなく、殆ど泣けてきた。ジグザグデモの前には、如何なる抗うべき権力も存在しない。警察権力に見守られながらの、アホくさい下手クソな芝居のようなジグザグデモ。靴底には、へばりついた犬の糞の感触と鼻をつく悪臭。犬の糞と同一化しているかのごとき自分の存在。全てが茶番だった。こんなショボイデモに付き合っている警官だって同じ労働者だ。仲間よりは、そのときの正直な感想を言えば、暑苦しい制服を身に纏った警察官と握手したいくらいの心境だった。権力に守られたデモなどは、僕から言わせれば、事のはじめから権力に敗北しているようなものだ。存在理由がない。犬の糞以上にクソおもしろくもない唾棄したき過去の破廉恥。
デモの後は決まって、ご苦労さん会だ。刺し身に弁当、それにビールで乾杯とくる。宴会会場の予約をしたのは、他ならぬ僕だ。役目柄とはいいながらも、アホか、と思う。そう思いつつ、ビール瓶を片手に組合員のみなさんに、ご苦労さま、と言いつつ酌をして廻る。オレはこんなことがしたくて教師になったのか? と、その頃、一和会の鉄砲玉のにいちゃんに5発の弾丸を体中に浴びせられてこの世を去った、やくざの友に呟いた。おまえが、女子校の教師やと~! という彼の情けなそうな神戸弁が頭の中で響き渡る。やっぱり、オレは間違ったな、とこっそりと頭の中の彼に呟く。さっきまで流れていた汗が冷や汗に変わる。オレは学生運動に挫折したとき、妙な見栄をはらずに、おまえと一緒に生きるべきだったな。かなり死期は早まったとは思うが。そんな呟きも聞こえてきたような気がする。
春闘のデモが終わると、ドッと疲れが出る。毎年、毎年、同じ気分になった。21世紀を迎えて、いよいよ、春闘の意味さえなくなった感がある。あの頃の芝居がかったデモ行進すらまだマシだったのかも知れない。いまや労働組合はさらに右傾化し、御用組合と化し、春闘という言葉さえ過去の遺物と成り果てた。労働者の賃金は、雇用者側の言いなりだ。リストラあり、左遷あり、出向あり、の時代だ。もはや、犬の糞を踏んづけることもないのだろう。労働者にとっては受難の時代だ。
○推薦図書「未来派左翼(上)」 アントニオ・ネグリ著 NHKブックス刊。左翼の知的逆襲が始まった書として推薦します。ネグリというヨーロッパを代表する知性は、現代という時代をどのように見据え、未来への展望を考えているのか、この書はよく捉えています。お薦めの書です。ぜひ、どうぞ。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
かつて、と言っても、もういまとなっては何年前までを、かつて、という言葉に含めればよいのかも定かではないが、僕が30代の半ば頃、京都における春闘は、なかなかに盛大であった。二条城に集合し、各々の組合分会の、かなりな人数がデモ行進する。堀川通りを北上し、府庁前を南下し、丸太町通りを御所に沿って西に歩き、5月の陽光の中で、この頃には体はじっとりと汗ばみ、着ているパーカーを脱いで、腰に巻付け(時代が分かるなあ、変なセンスや)て市役所前まで行進するのである。
組合の役員なのだから、僕は先頭に立って分会の主張をスローガンとして掲げ、シュプレヒコールをマイクでがなりたてるのだが、ある種の高揚感は否定はしないけれども、その最中、背筋に冷たい感覚を抱きつつ、ここは自分のいる場所ではないな、という奇妙に醒めた自分の存在に気づいてもいた。これが、権力と対峙している姿では絶対にないだろう? という居心地の悪さが肩に重くのしかかってきたことを、忘れがたく僕の体全体で覚えている。デモが警察の許可を得なければ許可されないものであれ、何で警察権力に守られるようにして、労働者の権利を安全極まりないところから、がなり立てるのかが、そもそも元政治的ラディカリストの僕には考えられないウソ臭い行為だった、といまだに思っている。僕は自分の抱える分会の先頭で、殆ど後ろ向きの状態で、スローガンを読経のように唱えているので、前が見えない。当時はいまほどにペットの糞の始末にうるさくはなかった時代で、犬の糞は結構そこらへんに転がっていたのである。後ろ向きに歩く僕のスニーカーを通して、妙な柔らかい感触が伝わってきた。ヌルリとした感触。それこそが、車輌通行止めというデモ行進の権利を得た結果の、犬の放ったばかりの糞の感触だった。どこまでもその臭いはつきまとって離れはしなかった。行進しながら、自分は犬の糞に違和感を感じているのか、自分の存在そのものが犬と化して、そのことが不快なのかが頭の中で整理出来ない自分を感じていたのである。
デモの横を警察官に守られているデモ行進自体がそもそもおかしいのではないか? と思う自分がいて、こんな甘ったるい行進のどこにデモンストレーションの意味があるのか? という深い疑問が僕の脳髄を支配し続けた。なにせ、デモ行進の最後こそ、圧巻? であった。市役所前で、ジグザグデモをやっておしまいなのである。ジグザグデモを指揮している自分が情けなく、殆ど泣けてきた。ジグザグデモの前には、如何なる抗うべき権力も存在しない。警察権力に見守られながらの、アホくさい下手クソな芝居のようなジグザグデモ。靴底には、へばりついた犬の糞の感触と鼻をつく悪臭。犬の糞と同一化しているかのごとき自分の存在。全てが茶番だった。こんなショボイデモに付き合っている警官だって同じ労働者だ。仲間よりは、そのときの正直な感想を言えば、暑苦しい制服を身に纏った警察官と握手したいくらいの心境だった。権力に守られたデモなどは、僕から言わせれば、事のはじめから権力に敗北しているようなものだ。存在理由がない。犬の糞以上にクソおもしろくもない唾棄したき過去の破廉恥。
デモの後は決まって、ご苦労さん会だ。刺し身に弁当、それにビールで乾杯とくる。宴会会場の予約をしたのは、他ならぬ僕だ。役目柄とはいいながらも、アホか、と思う。そう思いつつ、ビール瓶を片手に組合員のみなさんに、ご苦労さま、と言いつつ酌をして廻る。オレはこんなことがしたくて教師になったのか? と、その頃、一和会の鉄砲玉のにいちゃんに5発の弾丸を体中に浴びせられてこの世を去った、やくざの友に呟いた。おまえが、女子校の教師やと~! という彼の情けなそうな神戸弁が頭の中で響き渡る。やっぱり、オレは間違ったな、とこっそりと頭の中の彼に呟く。さっきまで流れていた汗が冷や汗に変わる。オレは学生運動に挫折したとき、妙な見栄をはらずに、おまえと一緒に生きるべきだったな。かなり死期は早まったとは思うが。そんな呟きも聞こえてきたような気がする。
春闘のデモが終わると、ドッと疲れが出る。毎年、毎年、同じ気分になった。21世紀を迎えて、いよいよ、春闘の意味さえなくなった感がある。あの頃の芝居がかったデモ行進すらまだマシだったのかも知れない。いまや労働組合はさらに右傾化し、御用組合と化し、春闘という言葉さえ過去の遺物と成り果てた。労働者の賃金は、雇用者側の言いなりだ。リストラあり、左遷あり、出向あり、の時代だ。もはや、犬の糞を踏んづけることもないのだろう。労働者にとっては受難の時代だ。
○推薦図書「未来派左翼(上)」 アントニオ・ネグリ著 NHKブックス刊。左翼の知的逆襲が始まった書として推薦します。ネグリというヨーロッパを代表する知性は、現代という時代をどのように見据え、未来への展望を考えているのか、この書はよく捉えています。お薦めの書です。ぜひ、どうぞ。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃