(14)
あれから何年も経ってから、中山が展開していた店舗がすべて閉店の憂き目に遇っていたことを知った。その頃すでにオレは中山たちに関心を失ってしまっていたので、たまたま河原町をフラフラしていたら、河原町通りに面する店舗が閉まっていることに気がついた。京都市内の中山が経営する全ての店舗に行ってみたら、どの店舗も閉鎖されているか、別の店に変わってしまっていた。あの小賢しい中山なら、別の事業を新らたに立ち上げてうまくやっているのだろう、と云う想いで舌打ちしてしまったが、ともあれ岡崎のペントハウスの様子を見てやろうと足を運んでみたら、管理人の話では夜逃げ同然にマンションから立ち退いたのだ、という。中山もかつてのオレのように、理恵に棄てられるのだ。中山に対してザマを見ろという気持ちより、不思議なことに憐憫の情さえ湧いて来るのはどうしたことだろうか?
季節は蒸し暑い夏になっていた。中山の事業が失敗したことを知ってからオレの記憶の中からそのことさえ薄らぎかけた頃、オレはいつものようにトースターから焼け焦げた食パンを取り出し、マーガリンをたっぷりと塗りつけ、その上に原材料のカタチが想像だに出来ない100%ペースト状のイチゴジャムをさらに分厚く塗りたくり、やかんの熱すぎるお湯をコップの中のインスタントコーヒーに注ぎ込み、額から流れ出る汗を拭いながら質素すぎる朝食を食べていた。エアコンは中古でも買えないし、電気代もかさむだけだから夏はただただ暑さに耐える日々だ。起き抜けにリサイクルショップから買ったテレビをつけていたら、女房子どもをアパートの一室で果物ナイフで刺し殺した男が逮捕される様子が朝の情報番組に映っていた。頭から何かで覆われているらしいが、犯人の名前と殺された妻と子どもの名前が報じられると、それが中山たち家族の崩壊した姿だということが分かった。オレは心の中で中山に叫びかけていたのである。
―おい、中山、オレはお前たちに散々な想いをさせられて、お前の子どもだと分かっていて和樹を育てようとしていた。理恵とも何とか折り合いをつけながらやっていくつもりだった。会社が倒産する前からお前は用意周到に次の手を打っていた。理恵の性格からすれば、当然オレを棄てて、お前のところに行手はずを整えていただろう。会社の倒産に見舞われ、お前もあの理恵との離婚の憂き目に遇っただろうが、離婚ごときはお前にとっては痛手でも何でもなかっただろうに。男好きなのは心配だったろうが、それでも理恵は性的にお前を引き寄せて余りある女だっただろうに。和樹もオレに押し付けたお前の実の息子だ。事業の失敗で経営者としての地位も金も失った途端に理恵なら金のありそうな他の男たちを漁ったに違いない。おそらく、一度や二度ではなかっただろう。お前がすべてを終わらせようとした気持ちは分かるような気がしないではない。だからこそ、ちょっとした憐憫の情さえ抱かざるを得ないが、それにしても、殺しちゃあいかんよ。痴情のもつれなんかで人を殺してはいかん。それも子どもまで殺ったんだから、お前はもうおしまいだ。人生の舞台から降りるしかないだろうな。
人間社会、人殺しも大儀があれば正当化される。国家のため、人民のため、テロリズムを根絶せしむるため、等々。大儀とやらの定義も曖昧極まりないが、殺す側にも殺す大儀がある。政治というやっかいなものが絡んで来ると、殺す側の論理、殺される側の論理は、角度を変えればまったく違った世界観として正当化されるだろうな。しかし、痴情のもつれの果ての殺人にはどのような理屈をつけても正当化など出来ない。人間の原初的な残虐性がかえって浮き彫りになるだけだ。今日はお前に対してザマァ見やがれ!という気分には到底なれない。山中、おまえのお陰でまた憂鬱の虫にオレは蝕まれるというわけだ。今日は(今日もか?)特に嫌な一日になりそうだ。
(15)
この世界が、オレの視界の中で捉えられるくらいだから、世界像という、かつては壮大だと感じていたものも、大した存在ではないというのが今更ながらの観想だ。人類の文化・文明も、結果をオレたちは見せられているわけだから、まったく手の届かない存在などではないのかも知れない。その中でも、とりわけ人間が後生大事に伝統文化だと称しているものにひれ伏す姿はどうにもオレには納得がいかない。
虫けらとしてのこのオレが、この世界に対して否!という意思表明を突き付けることは出来ないものか?現代という時代は、かつて金閣寺を焼失させた青年のように、そして彼の詳細な調査をもとに「金閣寺」を書いた三島由紀夫の作品(オレは事件性に隠れた美文的散文は好みではないが)の本質を許容するような社会ではない。伝統を壊すことは許されないが、「滅び」の瞬間の明滅を美意識で飾る遊びごとくらいは無関心でいられるのである。要するに心のどこかでおかしい、と感じても具体的な不利益を被らないなら偽善的に何事も許容しようという精神性が蔓延っているのである。これが現代社会の、この日本の、いや、世界のありさまなのだ。
実際、ずっと以前、三島由紀夫が私的軍隊組織(盾の会)と伴に当時の自衛隊市谷駐屯所に押し入り、割腹自殺してみせた事件は、三島の独りよがりのお遊び程度に世の人々に受け止められ、葬られたではないか。庭に並ばされた自衛隊員に向かって、彼らのヤジと怒号の中で、三島の声がか弱くかき消される様をテレビで観ていた人々はどう感じたのだろうか?おそらく殆どの人々は、浮世離れしたお坊ちゃん小説家の自死の演出だと認識したのではなかろうか?
オレは心の底から三島由紀夫という自意識過剰なエリート右翼作家のことが嫌いで仕方がない。華奢な身体をボディビルと剣道で鍛え上げて、見せかけの逞しさに自己陶酔していた感覚が手にとるように分かるからだ。三島の「憂国」は、三島由紀夫という人間性の概念そのものだ、とオレは思う。はっきりと言っておくが、オレの政治姿勢は、左翼でも右翼でも中道でもない。むしろ政治にはある決まった政治思想などたいして役立たないという考え方の方が現実感があると思っているだけなのである。
政治家というのは、選挙用に国民に対して、開かれた政治を創る!などと宣うが、実際、彼らは政治姿勢の色合いは変わっても、秘密がお好きだ。秘密裡に話を進め、自分たちの思惑に沿ったカタチを政治的成果だと喧伝して、自らの政治的成果だと言い張るのだ。だからと言って、政治的折衝の過程の全てをつまびらかにしたところで、国民とやらは政治的交渉事などにはすぐに飽きるし、本当のところは大した関心もない。自分より贅沢が出来る人間を羨ましがり、そのうち羨望すら無意味だと無理やり納得し、自分の生業を認めることで自分の惨めさから目を背けてしまう。それが庶民といい、大衆という生き方そのものではないか?あるいは、これが大衆という原像、あるいは大衆という幻像ではないのだろうか?オレの生きてきたプロセスを含めて改めてこれがどのような政治体制であっても、その中に暮らす大衆の生き方の枠組みというか、リアルな思考の構造ではないか、と思いながら自分を納得させている毎日なのである。
ホセ・オルテガ・イ・ガゼットの「大衆の反逆」しかり、自然死を待ち切れず、自死した西部邁も「大衆への反逆」を書いて人間が集団化した大衆の原像の醜悪さと偽善を彼らは見抜き、絶望の淵から自らの、むしろ貴族的とも云える思想を構築したのである。オレはどちらかというと、この二人の思想家のことは認める。何故なら、人間集団としての大衆、あるいは国民というものに社会変革のためのいかなる幻想も抱かなかったという点において、この二人は孤独に自己の思想を構築した勇気ある人間だとオレは勝手に思っているものだから。
(16)
少々、深く考えすぎた。深く考えると腹が減るから困ったものだ。コンビニのおにぎりを一つ余計に買わなければならないのは、オレには経済的に厳しい。まあ、いい。今日は鴨川の出町柳あたりの橋の下のベンチで日よけしながら、昼飯といくか。
金もなく、歯医者にも行けず、残り少なくなった歯も殆ど虫歯になって奥歯の一つに大きな穴が開いてしまってから、やっと歯の有難さに気づいた。ともかく歯は大事だ。おにぎりの米粒が特に奥歯の虫歯の穴に入るとかなりやっかいだ。シーシーと吸い込んだ息で詰った米粒を取り出そうとしてもうまくいかない。指を使ってもこそぎ落せない。最近のコンビニはオレが買うくらいの量ではなかなか割りばしもくれないし、割りばしの透明な袋の中に爪楊枝も入っていないので困る。その上、女とは無縁の生活がこれから先もずっと続くのか、と思うと全てを諦めたオレだって時折は寂しくはなる。自分のイチモツを手でしごくなんて、この歳になるともはやしんどくて出来やしないのである。それでも躰の奥底で女を求めるモヤモヤが常に在る。どうかしている、と自嘲的に笑ってしまうこともあるが、これだけは致し方ない。解決策も見当たらない。オレみたいなすでに高齢者になってしまった、生活困窮者の男に振り向いてくれる女は100%いない。世の中にはオレくらいの歳でも金さえあれば、若い女を抱ける男がいっぱいいるだろうに。(まあ、こういうのも寂しいか。)
要するに、金や地位や名声や、それらが総合的に創り上げるセンス、謂わば、フリンジに女は吸い寄せられるのだ。逆もしかり、だ。男だって、フリンジが創り出す女に色気を感じて吸い寄せられるのだ。まったく、そのことがよく分かるだけに余計に腹が立つ昨今である。生活保護に身を委ねるようになってから、一度だけ寂しさに耐えきれず、風俗に行ったことがある。それが心の慰めになるとは思わなかったが、とにかく女の躰の暖かみが懐かしかったからだ。性の機械化とオレは性風俗のことを呼ぶことにしたのは、性の放出までの過程は、きっちりとマニュアル化されていて、効率よく男の欲情を頂点にまで導かせる、非常にシステマティックなものだからだ。あろうことか、その時オレは生活保護費の殆どをたった一回の射精に費やしたというわけだ。その後の数か月は無審査同然の高利のカードローンで生活費を補填して凌ぐことになった。生活の質は極限にまで落ちた。食うや食わずのどん底だった。これが一回分の射精に要する負の見返りだった。オレは自分の躰に教えられたのだ。それはこうだ。貧乏人ほど道を踏み外すことなど出来ず、真面目な生活を強いられる。そうしなければ、行き着く果ては野垂れ死にしかない。日々の正確なルーティーンに従って生きること。これがオレの信条になった。
あれから何年も経ってから、中山が展開していた店舗がすべて閉店の憂き目に遇っていたことを知った。その頃すでにオレは中山たちに関心を失ってしまっていたので、たまたま河原町をフラフラしていたら、河原町通りに面する店舗が閉まっていることに気がついた。京都市内の中山が経営する全ての店舗に行ってみたら、どの店舗も閉鎖されているか、別の店に変わってしまっていた。あの小賢しい中山なら、別の事業を新らたに立ち上げてうまくやっているのだろう、と云う想いで舌打ちしてしまったが、ともあれ岡崎のペントハウスの様子を見てやろうと足を運んでみたら、管理人の話では夜逃げ同然にマンションから立ち退いたのだ、という。中山もかつてのオレのように、理恵に棄てられるのだ。中山に対してザマを見ろという気持ちより、不思議なことに憐憫の情さえ湧いて来るのはどうしたことだろうか?
季節は蒸し暑い夏になっていた。中山の事業が失敗したことを知ってからオレの記憶の中からそのことさえ薄らぎかけた頃、オレはいつものようにトースターから焼け焦げた食パンを取り出し、マーガリンをたっぷりと塗りつけ、その上に原材料のカタチが想像だに出来ない100%ペースト状のイチゴジャムをさらに分厚く塗りたくり、やかんの熱すぎるお湯をコップの中のインスタントコーヒーに注ぎ込み、額から流れ出る汗を拭いながら質素すぎる朝食を食べていた。エアコンは中古でも買えないし、電気代もかさむだけだから夏はただただ暑さに耐える日々だ。起き抜けにリサイクルショップから買ったテレビをつけていたら、女房子どもをアパートの一室で果物ナイフで刺し殺した男が逮捕される様子が朝の情報番組に映っていた。頭から何かで覆われているらしいが、犯人の名前と殺された妻と子どもの名前が報じられると、それが中山たち家族の崩壊した姿だということが分かった。オレは心の中で中山に叫びかけていたのである。
―おい、中山、オレはお前たちに散々な想いをさせられて、お前の子どもだと分かっていて和樹を育てようとしていた。理恵とも何とか折り合いをつけながらやっていくつもりだった。会社が倒産する前からお前は用意周到に次の手を打っていた。理恵の性格からすれば、当然オレを棄てて、お前のところに行手はずを整えていただろう。会社の倒産に見舞われ、お前もあの理恵との離婚の憂き目に遇っただろうが、離婚ごときはお前にとっては痛手でも何でもなかっただろうに。男好きなのは心配だったろうが、それでも理恵は性的にお前を引き寄せて余りある女だっただろうに。和樹もオレに押し付けたお前の実の息子だ。事業の失敗で経営者としての地位も金も失った途端に理恵なら金のありそうな他の男たちを漁ったに違いない。おそらく、一度や二度ではなかっただろう。お前がすべてを終わらせようとした気持ちは分かるような気がしないではない。だからこそ、ちょっとした憐憫の情さえ抱かざるを得ないが、それにしても、殺しちゃあいかんよ。痴情のもつれなんかで人を殺してはいかん。それも子どもまで殺ったんだから、お前はもうおしまいだ。人生の舞台から降りるしかないだろうな。
人間社会、人殺しも大儀があれば正当化される。国家のため、人民のため、テロリズムを根絶せしむるため、等々。大儀とやらの定義も曖昧極まりないが、殺す側にも殺す大儀がある。政治というやっかいなものが絡んで来ると、殺す側の論理、殺される側の論理は、角度を変えればまったく違った世界観として正当化されるだろうな。しかし、痴情のもつれの果ての殺人にはどのような理屈をつけても正当化など出来ない。人間の原初的な残虐性がかえって浮き彫りになるだけだ。今日はお前に対してザマァ見やがれ!という気分には到底なれない。山中、おまえのお陰でまた憂鬱の虫にオレは蝕まれるというわけだ。今日は(今日もか?)特に嫌な一日になりそうだ。
(15)
この世界が、オレの視界の中で捉えられるくらいだから、世界像という、かつては壮大だと感じていたものも、大した存在ではないというのが今更ながらの観想だ。人類の文化・文明も、結果をオレたちは見せられているわけだから、まったく手の届かない存在などではないのかも知れない。その中でも、とりわけ人間が後生大事に伝統文化だと称しているものにひれ伏す姿はどうにもオレには納得がいかない。
虫けらとしてのこのオレが、この世界に対して否!という意思表明を突き付けることは出来ないものか?現代という時代は、かつて金閣寺を焼失させた青年のように、そして彼の詳細な調査をもとに「金閣寺」を書いた三島由紀夫の作品(オレは事件性に隠れた美文的散文は好みではないが)の本質を許容するような社会ではない。伝統を壊すことは許されないが、「滅び」の瞬間の明滅を美意識で飾る遊びごとくらいは無関心でいられるのである。要するに心のどこかでおかしい、と感じても具体的な不利益を被らないなら偽善的に何事も許容しようという精神性が蔓延っているのである。これが現代社会の、この日本の、いや、世界のありさまなのだ。
実際、ずっと以前、三島由紀夫が私的軍隊組織(盾の会)と伴に当時の自衛隊市谷駐屯所に押し入り、割腹自殺してみせた事件は、三島の独りよがりのお遊び程度に世の人々に受け止められ、葬られたではないか。庭に並ばされた自衛隊員に向かって、彼らのヤジと怒号の中で、三島の声がか弱くかき消される様をテレビで観ていた人々はどう感じたのだろうか?おそらく殆どの人々は、浮世離れしたお坊ちゃん小説家の自死の演出だと認識したのではなかろうか?
オレは心の底から三島由紀夫という自意識過剰なエリート右翼作家のことが嫌いで仕方がない。華奢な身体をボディビルと剣道で鍛え上げて、見せかけの逞しさに自己陶酔していた感覚が手にとるように分かるからだ。三島の「憂国」は、三島由紀夫という人間性の概念そのものだ、とオレは思う。はっきりと言っておくが、オレの政治姿勢は、左翼でも右翼でも中道でもない。むしろ政治にはある決まった政治思想などたいして役立たないという考え方の方が現実感があると思っているだけなのである。
政治家というのは、選挙用に国民に対して、開かれた政治を創る!などと宣うが、実際、彼らは政治姿勢の色合いは変わっても、秘密がお好きだ。秘密裡に話を進め、自分たちの思惑に沿ったカタチを政治的成果だと喧伝して、自らの政治的成果だと言い張るのだ。だからと言って、政治的折衝の過程の全てをつまびらかにしたところで、国民とやらは政治的交渉事などにはすぐに飽きるし、本当のところは大した関心もない。自分より贅沢が出来る人間を羨ましがり、そのうち羨望すら無意味だと無理やり納得し、自分の生業を認めることで自分の惨めさから目を背けてしまう。それが庶民といい、大衆という生き方そのものではないか?あるいは、これが大衆という原像、あるいは大衆という幻像ではないのだろうか?オレの生きてきたプロセスを含めて改めてこれがどのような政治体制であっても、その中に暮らす大衆の生き方の枠組みというか、リアルな思考の構造ではないか、と思いながら自分を納得させている毎日なのである。
ホセ・オルテガ・イ・ガゼットの「大衆の反逆」しかり、自然死を待ち切れず、自死した西部邁も「大衆への反逆」を書いて人間が集団化した大衆の原像の醜悪さと偽善を彼らは見抜き、絶望の淵から自らの、むしろ貴族的とも云える思想を構築したのである。オレはどちらかというと、この二人の思想家のことは認める。何故なら、人間集団としての大衆、あるいは国民というものに社会変革のためのいかなる幻想も抱かなかったという点において、この二人は孤独に自己の思想を構築した勇気ある人間だとオレは勝手に思っているものだから。
(16)
少々、深く考えすぎた。深く考えると腹が減るから困ったものだ。コンビニのおにぎりを一つ余計に買わなければならないのは、オレには経済的に厳しい。まあ、いい。今日は鴨川の出町柳あたりの橋の下のベンチで日よけしながら、昼飯といくか。
金もなく、歯医者にも行けず、残り少なくなった歯も殆ど虫歯になって奥歯の一つに大きな穴が開いてしまってから、やっと歯の有難さに気づいた。ともかく歯は大事だ。おにぎりの米粒が特に奥歯の虫歯の穴に入るとかなりやっかいだ。シーシーと吸い込んだ息で詰った米粒を取り出そうとしてもうまくいかない。指を使ってもこそぎ落せない。最近のコンビニはオレが買うくらいの量ではなかなか割りばしもくれないし、割りばしの透明な袋の中に爪楊枝も入っていないので困る。その上、女とは無縁の生活がこれから先もずっと続くのか、と思うと全てを諦めたオレだって時折は寂しくはなる。自分のイチモツを手でしごくなんて、この歳になるともはやしんどくて出来やしないのである。それでも躰の奥底で女を求めるモヤモヤが常に在る。どうかしている、と自嘲的に笑ってしまうこともあるが、これだけは致し方ない。解決策も見当たらない。オレみたいなすでに高齢者になってしまった、生活困窮者の男に振り向いてくれる女は100%いない。世の中にはオレくらいの歳でも金さえあれば、若い女を抱ける男がいっぱいいるだろうに。(まあ、こういうのも寂しいか。)
要するに、金や地位や名声や、それらが総合的に創り上げるセンス、謂わば、フリンジに女は吸い寄せられるのだ。逆もしかり、だ。男だって、フリンジが創り出す女に色気を感じて吸い寄せられるのだ。まったく、そのことがよく分かるだけに余計に腹が立つ昨今である。生活保護に身を委ねるようになってから、一度だけ寂しさに耐えきれず、風俗に行ったことがある。それが心の慰めになるとは思わなかったが、とにかく女の躰の暖かみが懐かしかったからだ。性の機械化とオレは性風俗のことを呼ぶことにしたのは、性の放出までの過程は、きっちりとマニュアル化されていて、効率よく男の欲情を頂点にまで導かせる、非常にシステマティックなものだからだ。あろうことか、その時オレは生活保護費の殆どをたった一回の射精に費やしたというわけだ。その後の数か月は無審査同然の高利のカードローンで生活費を補填して凌ぐことになった。生活の質は極限にまで落ちた。食うや食わずのどん底だった。これが一回分の射精に要する負の見返りだった。オレは自分の躰に教えられたのだ。それはこうだ。貧乏人ほど道を踏み外すことなど出来ず、真面目な生活を強いられる。そうしなければ、行き着く果ては野垂れ死にしかない。日々の正確なルーティーンに従って生きること。これがオレの信条になった。