○孤独という名のレッスン
生きることにまつわる孤独感を回避することは出来ない。生きている限り、人は、どのような環境下にいようとも、その人の個性に特有の、孤独の苦い味わいを噛みしめつつ生きるのである。日のあたる社会的地位を獲得したとして、それゆえに自分の周りには、たくさんの他者が当然のように集まってくる。また、それとは真逆に、不運な人生を背負わざるを得ない人が、他者から身を潜めるように生きているにしても、襲い来る孤独感、寂寥感は、現れ方が異なるだけで、やはり回避することは不可能なのである。すなわち僕たちは孤独を生きている。そう表現しても、決して言い過ぎではないだろう。
繰り返しになるが、孤独とは、ひとりでいることと同じではない。ひとりでいようが、見知らぬ群衆の中にいようが、知人・友人・家族と伴にいようが、やはり孤独感は襲い来る。もっと突っ込んで云うなら、ひとりで過ごすことを孤独と感じる人よりも、複数の他者との関係の中に孤独を感じる人の苦悩の方が深いと、僕は思う。
上記したように、孤独と苦悩は僕たちの脳髄の中で交錯している概念性だ。それゆえに、意識的な思想的格闘もなく、ひとりで居るほうが心地よいと感じるような心性は、人間の自然な価値意識が生のどこかの時点で転倒している可能性がある。人は、たとえ孤独にまみれても、自分以外の他者と居ることを好む。もっと正確に言うと、集団の中の孤独の方が孤独そのものを意識化しにくいからだ。しかし、本質的には、ひとりぼっちでも孤独、他者と交わっていても孤独(意識しているかどうかだけの問題です)。すなわち、孤独の前にあっては、人は八方塞状態なのである。
このようなことに自覚的になった上で、この難儀な孤独という感性を思想化することは出来ないものか?また、孤独を思想化するとは、どういうことか?
たとえば、人が生きるプロセスで、自分でも意識することなく、意識の襞の隙間に埋もれさせている事柄がある。それが普通のあり方だ。まず、褒められたものなどないゆえに、意識の奥底に隠蔽しておくのである。そういうものが、確実に人にはある。殆どは、無意識下に埋もれているので、人は隠蔽した事実すら忘却しているのが普通だ。そして、記憶の奥底に圧し込んだものほど、掘り起こすのに痛みを伴うものはない。が、その掘り起こしと痛みにこそ、孤独を媒介にした思想の具現化、思想の底上げに寄与するものはないのである。
生きることには、理屈抜きの楽しさもあれば、隠蔽、忘却しなければ耐えがたき要素も含まれている。真実の片側だけを見ている限り、僕たちの生は豊かにはなり得ない。孤独を掘り起こす作業。孤独と向き合う姿勢。苦さを伴って気づくことの価値の高さ。これこそが、孤独という名のレッスンだ。生きるためのレッスンである。敢えて、挑もうではないか!だって、これは、人間にとっての高次元の精神的営為ですから。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
生きることにまつわる孤独感を回避することは出来ない。生きている限り、人は、どのような環境下にいようとも、その人の個性に特有の、孤独の苦い味わいを噛みしめつつ生きるのである。日のあたる社会的地位を獲得したとして、それゆえに自分の周りには、たくさんの他者が当然のように集まってくる。また、それとは真逆に、不運な人生を背負わざるを得ない人が、他者から身を潜めるように生きているにしても、襲い来る孤独感、寂寥感は、現れ方が異なるだけで、やはり回避することは不可能なのである。すなわち僕たちは孤独を生きている。そう表現しても、決して言い過ぎではないだろう。
繰り返しになるが、孤独とは、ひとりでいることと同じではない。ひとりでいようが、見知らぬ群衆の中にいようが、知人・友人・家族と伴にいようが、やはり孤独感は襲い来る。もっと突っ込んで云うなら、ひとりで過ごすことを孤独と感じる人よりも、複数の他者との関係の中に孤独を感じる人の苦悩の方が深いと、僕は思う。
上記したように、孤独と苦悩は僕たちの脳髄の中で交錯している概念性だ。それゆえに、意識的な思想的格闘もなく、ひとりで居るほうが心地よいと感じるような心性は、人間の自然な価値意識が生のどこかの時点で転倒している可能性がある。人は、たとえ孤独にまみれても、自分以外の他者と居ることを好む。もっと正確に言うと、集団の中の孤独の方が孤独そのものを意識化しにくいからだ。しかし、本質的には、ひとりぼっちでも孤独、他者と交わっていても孤独(意識しているかどうかだけの問題です)。すなわち、孤独の前にあっては、人は八方塞状態なのである。
このようなことに自覚的になった上で、この難儀な孤独という感性を思想化することは出来ないものか?また、孤独を思想化するとは、どういうことか?
たとえば、人が生きるプロセスで、自分でも意識することなく、意識の襞の隙間に埋もれさせている事柄がある。それが普通のあり方だ。まず、褒められたものなどないゆえに、意識の奥底に隠蔽しておくのである。そういうものが、確実に人にはある。殆どは、無意識下に埋もれているので、人は隠蔽した事実すら忘却しているのが普通だ。そして、記憶の奥底に圧し込んだものほど、掘り起こすのに痛みを伴うものはない。が、その掘り起こしと痛みにこそ、孤独を媒介にした思想の具現化、思想の底上げに寄与するものはないのである。
生きることには、理屈抜きの楽しさもあれば、隠蔽、忘却しなければ耐えがたき要素も含まれている。真実の片側だけを見ている限り、僕たちの生は豊かにはなり得ない。孤独を掘り起こす作業。孤独と向き合う姿勢。苦さを伴って気づくことの価値の高さ。これこそが、孤独という名のレッスンだ。生きるためのレッスンである。敢えて、挑もうではないか!だって、これは、人間にとっての高次元の精神的営為ですから。
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長野安晃