漂白される生
この世界を生き抜き、駆け抜けることはとても困難なことなのかも知れない。僕がそう思うのは、たぶん、青年の頃からずっと、人間と人間との濃密な関係性を構築することに憧れてきたからなのではないだろうか。濃密な人間の関係性とは、当然それなりのリスクが伴う。言葉を飾ることをハナから放棄した言葉の投げかけによって、他者を傷つけ、同時に己をも傷つける。そこに自己の孤立という暗い穴が待ち受けているのもよく分かってはいる。それを一個の人間の屹立した姿などと強弁してはみるが、吐き出された言葉そのものが、虚空を舞って、散り果てるだけである。しかし、それでも僕は、生とはあくまで濃密で、他者との関係性において、自他の存在が言葉というツールによって深く交錯し、反発し合いながらも、結論的には、互いに深くきりむすんだ関係性を構築することだと考える。そこに一切の妥協はない。
人生の折り返し点をとうの昔に折り返してしまった観想とは、ひと言で表現すれば、苦い。人間がこの世界で生きるための方便とは、他者との間でうまく折り合いをつけることか、はたまた、折り合いもつかないのに、後生大事につまらない猥雑物のごとき関係性にしがみつこうとすることだ。たぶん、それをたとえて言うなら、べとべとした、いやらしいほどの甘さではなかろうか。人間が無難に生きていこうとすれば、苦さではなくて、甘き生き方にしがみつくことだろう。僕の裡なる人間としての内面の定義から紡ぎ出されてくる概念性とは、あくまで苦き苦悩の果ての、絶望との対峙そのものである。死するまで、これでつきぬけるしかもはや僕に残された生の選択肢などないに等しい。
まわりを見回してみる。そこにあるのは、自己の生の内実をひた隠しにして、舌触りのよい言葉の交通で満ち溢れているではないか。あるいは、自己弁護の雨あられ。これが人間の姿か?否である。もし、これを世間といい、世の中の生きる知恵と称するならば、それは、僕の言葉で言えば、生の漂白である。生につきものの、すべての色彩、あるいは、毒が抜け落ちているのである。今日、生は漂白され続けているのである。哀れだ。僕はそう思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
この世界を生き抜き、駆け抜けることはとても困難なことなのかも知れない。僕がそう思うのは、たぶん、青年の頃からずっと、人間と人間との濃密な関係性を構築することに憧れてきたからなのではないだろうか。濃密な人間の関係性とは、当然それなりのリスクが伴う。言葉を飾ることをハナから放棄した言葉の投げかけによって、他者を傷つけ、同時に己をも傷つける。そこに自己の孤立という暗い穴が待ち受けているのもよく分かってはいる。それを一個の人間の屹立した姿などと強弁してはみるが、吐き出された言葉そのものが、虚空を舞って、散り果てるだけである。しかし、それでも僕は、生とはあくまで濃密で、他者との関係性において、自他の存在が言葉というツールによって深く交錯し、反発し合いながらも、結論的には、互いに深くきりむすんだ関係性を構築することだと考える。そこに一切の妥協はない。
人生の折り返し点をとうの昔に折り返してしまった観想とは、ひと言で表現すれば、苦い。人間がこの世界で生きるための方便とは、他者との間でうまく折り合いをつけることか、はたまた、折り合いもつかないのに、後生大事につまらない猥雑物のごとき関係性にしがみつこうとすることだ。たぶん、それをたとえて言うなら、べとべとした、いやらしいほどの甘さではなかろうか。人間が無難に生きていこうとすれば、苦さではなくて、甘き生き方にしがみつくことだろう。僕の裡なる人間としての内面の定義から紡ぎ出されてくる概念性とは、あくまで苦き苦悩の果ての、絶望との対峙そのものである。死するまで、これでつきぬけるしかもはや僕に残された生の選択肢などないに等しい。
まわりを見回してみる。そこにあるのは、自己の生の内実をひた隠しにして、舌触りのよい言葉の交通で満ち溢れているではないか。あるいは、自己弁護の雨あられ。これが人間の姿か?否である。もし、これを世間といい、世の中の生きる知恵と称するならば、それは、僕の言葉で言えば、生の漂白である。生につきものの、すべての色彩、あるいは、毒が抜け落ちているのである。今日、生は漂白され続けているのである。哀れだ。僕はそう思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃