ニケとミケ

捨て猫にゃん子2匹と、先輩捨てられ犬チョコの日々の記録

ビンラーディンの死亡

2011-05-02 22:40:11 | ペット
                    

 ウサマ・ビンラーディンの死亡、という大きなニュースが飛び込んできましたね。死亡、殺害、暗殺、どう表現したらいいのか、悩んでしまいました。こちら(という言い方もおかしいですが・・・)欧米文化圏というか、自由主義圏、ん~、そう、非イスラム圏というのが一番合うかもしれませんが、こちらでは、歓迎したり、喜んでいる人が大多数なんでしょうが、イスラム圏の方たちは又、違う受け止め方なんでしょうね。

 ウサマ・ビンラーディンのした(と、される)行為を、こちら側では、「悪(犯罪)」と捉え、ビンラーディン側は「ジハード(聖戦・正義)」と主張しているわけですから、評価も当然変わってきます。

 ビンラーディンの死亡を、私的には、やはり評価する部分が大きくて、それは、与えられている情報だけでの判断ですが、やはり、ビンラーディンの主張には相当の無理があるように思われ、行為が、「正義」とは思えず、大量殺戮の張本人であり、「悪は滅びて、正義は勝つ」という思いや「敵討ち」的な思いからも、今回のアメリカの攻撃を許容する部分が、大きいように思います。

 ただ、今回の攻撃が「絶対的に正しい」などとは殆どの人が、思ってはいない様にも思うのです。わが日本も含めて、自由主義圏の経済活動が、必ずしも、正当、正義に則っているとは、言いがたい事例(賄賂や、独裁政治への協力など)も、多々あることを聞きますし、それに対するレジスタンス的な行動を、どこまでは許して(肯定的に捉えて)どこからは「テロ」と非難するのか・・・。なかなか難しいところだと思います。

 宗教が精神や、生活の中心に据えられている文化は、やはり怖く感じますね。ま~日本でも近年でいえば、「オウム真理教」の事件のように、教祖なる人の言葉で、妄信的に事件に関与した信者が多数いたわけですが、今回のイスラム教の過激派といわれる人たちの、「ジハード」という言葉に名を借りた、テロ行為を命じる宗教指導者の、教典や教理の解釈には疑問を感じます。

 宗教は何のために有るのか。・・・人間のためであり、人間の幸福のためのはずです。では、その幸福のためには、人に迷惑をかけても(他の人を不幸にしても)良いという宗教はあるのでしょうか。私のつたない知識ですが、イスラム教にも、キリスト教にも、もちろん仏教にも、そういう件(くだり)はないようです。

 にもかかわらず、キリスト教にしても、「布教」という美名の下に、各地に行って、宗教の押し付けと、不平等な交易をさせて、挙句の果てには植民地にして、何の罪もない人たちを苦しめるという、大悪事を行った過去(今もあるかもしれませんが)が有ります。

 日本は宗教には寛容というか、余り生活や、精神の中心には据えていないところが、良い様に思いますね。何事も程々が一番。そりゃあ、神様や仏様は、大したもので、間違いのない完璧なもんだとしても、なんせそれを伝えるのは、どう頑張っても人間なんですから、そこには間違いや、恣意的なものが含まれるのは否定できません。我々日本人はそのあたりを、阿吽の呼吸で分っているのかもしれません。他の宗教を生活の中心に据えている方たちもそのあたり、日本を見習って欲しいですね(この部分は半分冗談です)

 今日は、このビンラーディンのことはサラッと流して、「食中毒」について書く予定でしたが、書き始めると・・・「食中毒」は明日書きます(予定です)