婦人倶楽部プリント
先日の研究ワークショップ:「20世紀日本ファッション産業の仲介者たち」で、同席した 京都市立芸術大学の牧田先生から、1950年代前半の「内地プリント」についていろいろ質問された。先生の口からとびだしたのは、我々が昔聞いたことのある 『婦人倶楽部プリント』。 以下彼女の研究資料である。
---各紡績企業が国内市場に目を向け始めたのは1953~1954年頃で、例えば1953年、大手の鐘紡は堀留の生地問屋10社を対象に『鐘紡会』を作ってプリント分野に積極的に乗り出している。日本のプリント問屋は船場、堀留、室町を中心に発展してきたが、これら問屋の発展の殆どは、1955年以降大手紡績会社の意匠力、情報収集力、加工力、それに販売宣伝力に負うところが大きかった。
---また鐘紡と並んでプリント分野に意欲を持った呉羽紡績は1954年樹脂加工の新製品「クレビ・エバーグレーズ」を発売、ポスター、新聞広告、あるいは婦人雑誌『婦人倶楽部』と提携して、『婦人倶楽部プリント』を製作、呉羽紡績 ― 大同染工 ラインで生産加工し、丸紅が全国約50社の代理店を通じて、東京、大阪の百店で、展示即売会やファッションショーなど大々的に発表した。
---これは、東西一流デザイナーのデザインと、モデルに1953年ミス・ユニバース 3位になった《伊東絹子》などを起用して大評判をとった。恐らく繊維製品販促、PRの最初の試みと言われている。この企画は1957年ころまで続いた。特にこの2社が自らプリントを企画、生産、育成しその中で生地問屋の発展をもたらした ---
「アフリカンプリント」だけでなく、当時の「大同の内地プリント」も研究している人たちがいることを知って、嬉しくなりました。 協力したいので、どんな図柄、誰の図案、加工法などなんでもよいから知っている方、コメントください。
東山十条86
今ではNHKの朝ドラをはじめ各局の看板ドラマにリバティプリントはじめ多くの大同プリントが会社が無くなっても登場しています。