戦後の復興期に入社した当時の想い出
終戦の翌昭和21年10月、私は中途採用により大同染工に入社しました。当時は未だ戦後の混乱からの復興初期で、西大路駅から会社までの西大路~十条通りの両側は戦時中に開墾された芋畑や玉蜀黍、豆畑等家庭菜園が残されていて、その間の地道を右左し乍ら通勤する状態でした。
会社での入社面接は吉岡専務に受け、即入社決定し、社員心得とか配属など説明もそこそこ、翌日出勤すると、人事の向井さんから工場実習へと、工務の中岡さんに引き渡され、そしていきなり捺染機の堀田さんに預けられ、捺染の実習作業をする事になりました。
元来染色とか捺染の予備智識など全く無かった私は、工場へ入った途端、天井に届かん許りの大きな連動した機械が、蒸気を噴出しながら運転が始まると人の声など聞こえない様な轟音を上げて回転し、染上がり布が振落ちから波打って落ちてくる光景に、正直恐怖にも似た驚きを覚えたものでした。
此れが以後私の五十年に及ぶ“染め”との付き合いの初めでした。
振落ち担当を命ぜられて、スフ人絹織物などの矢絣着尺や更紗、友禅染め等の和装物が多く、加工品の種類を色々と覚えました。フルに捺染機が回転している時の騒音に、戦後復興の逞しい活力と息吹を感じておりました。
2ヶ月後、22年の正月から生地倉庫の実習に変り、生地の受け入れと加工工程へ投入する準備作業を手伝い、生地の種類チェック、保管の方法など、責任者の泉さんから教わりました。その当時生地の搬入は日通の馬車や牛車で運ばれて来る事が多く、戦後の運送状況の一端を示すものです。
22年3月になって私の配属は営業部の受渡係と決まりました。営業部は小林部長、松原課長、山田さん、そして私の直接の上司として林田課長が入社着任されました。先輩事務係に山本君子さんがいて総勢6名でした。当時、世話になり指導頂いた先輩上司の方々は、60年過ぎた今日では共に昔を語り合える人も少なくなってしまいました。
この年4月から、GHQと日本政府との間で繊維産業の復興援助の一環として輸入米綿織物の染色加工輸出開始が決定されました。染色工業会が一括受注して各染工場の内情に応じて割り当て発注されると云う形式でした。
丁度私はその時期に合わせて、このGGベース取引の輸出向綿織物加工の受渡事務を最初から担当する事になりました。大阪本町にあった繊維貿易公団での加工注文書受領に始まり、担当輸出商社との打ち合わせ連絡、綿布送付案内の確認、工場への加工指図、仕上がり品の仕立て指図、輸出検査、梱包、神戸大阪港の臨海倉庫への出荷搬入指図までの受渡事務は、繁忙な反面、手順や書類の形式などは新規分野の開拓で、全部任され思い通りに仕事させて貰えた事は、今考えると何より幸いだったと思います。
その当時の大阪は戦後の復興未だ未だで瓦礫の山が其処かしこに見られ「これより心斎橋通り」の看板が瓦礫の上に立っていたのが印象深く残っています。戦災を免れたビルも傷だらけの疲弊した風景でした。
輸出注文第1号はインドネシア向け任斯(ジンス)の縞柄プリントでした。以後アフリカ向ワックスプリント、ブループリント、カンガープリント、インド向サリー、ビルマ、タイ向のパシン、ネシア向バチックサロン等々各国の民族衣装柄の注文が増えていきました。然し一方では内地向け和装商品の正規ルート闇ルートの加工品も混在して受注する時代でした。
会社では受注拡大と新しい加工技術開発に対応して、工場の建て増しや機械設備の新設増強が進み、将に日進月歩の発展でした。
当時日本国内の衣料品は統制品で所謂切符制の配給品でした。従って工場で扱う綿織物は国有綿布であり、工場の周囲には「国有綿処理工場」の立て札が立てられ警戒管理されていました、又生地の入荷や製品の出荷には、必ずGHQ管理による「移動証明書」を添付しなければならず、予定に合わせ前以て管理部へ証明書の発行依頼に日参したものでした。
この様にして始まった輸出向け染色加工も、年々拡大発展し業界挙げて設備の近代化拡充や技術開発が進み、一方国有綿の払い下げ、管理貿易から自由取引への移行、輸出優先政策と相俟って、繊維産業の輸出黄金時代が到来する気運になっていきました。更に朝鮮戦争による特需景気が経済復興と発展を飛躍的に増進させる事になりました。
当時を顧ると、新しい仕事の展開に対して興味と挑戦意欲が沸き、忙しい勤務の疲労感も気にせず、仕事をエンジョイ出来る社内雰囲気にありました。時代背景が上り坂の日本繊維業界の中にあって、青春を謳歌し将来の発展を夢見て働き得た当時の幸運と、今年厳しい努力の甲斐もなく消え去っていった大同マルタの最終を見届ける事になった後輩諸氏の心境とを比較して思う時、時代の流れとは云え、遣る瀬無い空しさと拠り所を失った淋しさを覚えるものです。
野本 明
大同マルタ染工㈱の思い出集(2009.11)に載ったものです。野本さんの原稿を原文のまま転載したものです。
野本さんの人柄と当時の苦労が良く分かります。
ご冥福をお祈りいたします。
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