豪円山はもともと呼瀧山・呼滝山と呼ばれていた山ですが、
大山寺中興の祖である豪円僧正(西楽院)の墓所となったことから
豪円山と呼ばれるようになりました。
何故、この地に豪円僧正の墓所が作られたかと言うと・・・
米子城は若すぎる城主(若干12歳・中村一忠)の後見役として
徳川家康に任命された、家老の横田内膳正が政事を行なっていました。
その家老がまず行なったのが居城や城下町の整備に加え、
領内の検地(年貢の徴収と農民支配が目的)な訳ですが、
その範囲は徳川家康より三千石の寺領安堵のお墨付きを
受けていた大山寺領にも及び、豪円僧正の怒りを買います。
そこで、城主が恨まれているのは、家老の横田のせいである
…と唆されて、一忠は家老を毒殺してしてしまいます。
その翌日に横田側は弔い合戦を挑みますが、
隣国の援軍を得た城方が勝利しました。
しかし、その後一忠は二十歳の若さで急死し、
跡継ぎのなかった中村家は断絶してしまいます。
聖域を侵された豪円僧正は、
「自分の墓は米子城を見下ろす高所に建ててくれ、米子城の没落を見届けたい」
と遺言し、大山寺に近い今の豪円山の頂上に葬られ、地蔵が建てられました。
こう言った事もあり、米子城に悲劇が続き滅びたのは
豪円僧正の恨み・呪いである…と、言うのが有名な説。
しかし、徳の高い僧でもある豪円僧正が
そのような些細な事で怒るのはおかしいのではないか。
豪円で西の方を向いているのは人々を導くため、神の住まう大山を背に、
城下を見下ろせる位置に佇み、豊穣の方角でもある西を向いている。
…と言うような説もあります。
米子(横田)騒動1603、中村一忠1590-1609、豪円僧正1536-1611
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今日8時の気温は20度。天気は晴れ。10時現在変わらず。
今日は米子市内の小学校さんが登山中。