早いもので令和6年も明けて、もう13日。
元旦の能登半島地震、翌日の日航機と海上保安庁機の事故、さる方のお屋敷火災、遠い存在ながら、日々を楽しませてもらった方々の訃報。それもあってか、政界の金問題、大企業の不正など、昨年から続いている負の問題までもが、必要以上に重く気持ちの中に入り込んでくる。
長い規制が外されて、ノーマスクでも大手を振って歩けるようになって、気持ちも明るく上向いて迎えた新年だったのに、なんという幕開けか。
情け容赦なく凍える中に放り出されてしまった地震被災者の方々。
どうぞ、少しでも早く暖の取れる場所に戻れますように。
安心して眠れる夜が訪れますように。
健康を維持できる食事がとれますように。
病やケガの治療を受けられますように。
もっともっと、あれもこれも、地震前の暮らしを取り戻せますように。
祈ることしか出来ないから、祈ります。
私はと言えば、初めて一人で過ごす予定の年末年始を、録音機器の件はとりあえず脇に置き、のんびりしようと思っていたが、30日に義息子三男のお嫁さん・Mさんから「これから行ってもいいですか?」との連絡があり、やって来た。
そして「明日、パパも来ます」と言われ、ほとんど買い物もせずに過ごす予定だったから大慌て。寝具の準備、年越し・迎春の準備に追われ、なんとか整った31日午後、「発熱で行けなくなった」と連絡が。
大食漢の息子君だからと用意した寿司、年越し蕎麦を前にMさんと呆然。年越しはお寿司を食べられるだけ食べて、年越しのお蕎麦は、なんと元旦の朝に食べた。
さらにそのあたふたの最中に、35年前に亡くなった奥様のお兄様が亡くなったと連絡が。ここ6~7年は年賀状のやりとりさえも絶えていて、夫が亡くなったことの連絡もしていなかったし、おじさんとはいえ義息子達も音信不通だったようで、その後のてんやわんやはおしてしるべし。
2日には三男君一家5人がやって来て賑やかに楽しく過ごしたが、4日に彼らが帰京するやいなや、年賀状が来なくて気になっていた二人の友人から、辛く切ない内容のメールが続けて届いた。
そしてネッ友さんの愛犬ちゃんの悲しいお知らせも。
今朝の冷え込みは酷かった。
サッシの室内側の結露を拭こうとしたら凍っていたし、ストーブの室温表示は0度。それ以下の表示は出来ないからマイナスだったかもしれない。外の水道の蛇口にはツララが下がっていたし、暖気運転しようとした車は、鍵の解除もできなかった。
令和6年は動き始めた。
始まったばかりと言うのに、こんな年は早く過ぎ去って欲しいと、思っている。