
篠川城跡・篠川御所跡。東舘稲荷神社。福島県郡山市安積町笹川東舘。
2024年5月28日(火)。
東北最大規模の前方後方墳・大安場1号墳を見学後、南西に向かい、室町時代に鎌倉公方足利満兼から派遣された弟の足利満直の篠川御所跡(篠川城跡)を目指した。篠川御所跡はほとんど残っていないが、東舘稲荷神社がその痕跡だという。県道355線を南進し、神社が東側にある地点に来たが、進入路はないに等しく、駐車スペースもない。
県道355線は旧奥州街道らしく、県道の周囲は笹川宿であったようだ。笹川は、中世の応永年間には篠川とも書き、篠川御所が置かれていた。1604年(慶長9年)、奥州道中(奥州街道)が中世の篠川御所跡を南北に縦貫する道に整備された際に、集落も沿道に移され、1613年(慶長18年)に宿場と定められたという。
東北新幹線高架下に来て、左の高架下脇道に路肩駐車した。
徒歩で、東舘稲荷神社を探して歩き、入口の路地を何とか発見できた。
東舘稲荷神社の参道入口には篠川城跡の碑が立つ。
社殿のある丘まで登ったが、何もあるわけではない。周囲には土塁らしい高まりがあるが土塁かは確認できない。
篠川御所は、室町時代、関東統治のため設置された鎌倉府が奥羽両国を統治するため,陸奥国安積郡篠川に置いた足利一族の呼び名と居館である。1391年(明徳2)暮れから両国併管を認可された鎌倉府は,1399年(応永6)春,第3代関東公方足利満兼のとき,弟の足利満貞,足利満直を岩瀬郡稲村(福島県須賀川市)と篠川に配置し,両国を掌握しようとした。これを稲村御所,篠川御所という。
鎌倉府が南奥にかたより,近接した稲村,篠川の地に兄弟を配置したのは,大崎氏,最上氏ら奥羽の探題家や伊達氏,蘆名氏ら有力国人が反鎌倉府的気運を強めていたためといわれる。
稲村御所と篠川御所との間には支配命令関係や職務権限の相違などはみられず,両御所ともに知行安堵,充行(あておこない),軍勢催促,軍忠感状などの文書を発給しており,相互に協力しながら奥羽支配を展開しようとしたとみられる。しかし、両御所が影響力を持っていたのは南奥が中心であり,その権力基盤は仙道地域の国人一揆であった。
1416年の上杉禅秀の乱以後,両御所は分裂し,稲村御所は足利満兼の子で第4代鎌倉公方の足利持氏方に属し,室町幕府の支援を得た篠川御所と抗争するが,反持氏勢力を結集する篠川方に圧倒され,1424年(応永31)に鎌倉に帰府し,稲村御所は消滅した。鎌倉に帰還した足利満貞は,1439年永享の乱のさい鎌倉公方の足利持氏とともに自害した。この間が篠川公方の全盛期であり,一時は鎌倉公方の地位さえねらったという。
足利満直は1440年(永享12)6月下総結城合戦の最中に,結城方荷担の南奥諸氏に攻められて自殺し篠川公方も滅亡した。
篠川城は、安積町笹川字高瀬、字東舘、字篠川などに跨る東西300m、南北約2kmもの範囲に建てられた群郭式の城郭とみられる。築城の時期ははっきりしないが鎌倉時代に一帯を治めた北条氏一門の北条国時が築いたのが始まりと考えられる。1333年(元弘3年)、鎌倉幕府滅亡時に北条国時の子陸奥六郎が籠城し、石川光隆ら国人に攻められて落城した。1352年(文和元年)、宇津峰へ向かう北朝方の軍と南朝方の合戦が起こり、北朝方が布陣した。1399年(応永6年)篠川公方足利満直がこの地を拠点とし、篠川御所と呼ばれたが、1440年(永享12年)、結城合戦が起こり結城氏方に攻められた足利満直が自害し、篠川公方は滅亡した。1580年(天正8年)、阿武隈川対岸の御代田城をめぐって佐竹義重らの連合軍と田村清顕との間で御代田合戦が起こり、佐竹方の須賀川城主・二階堂照行家臣の須田頼隆が布陣した。1589年(天正17年)に伊達政宗に攻められ落城した。
1608年(慶長8年)、江戸幕府の命令により廃城になり、跡地には集落が作られて奥州街道が貫くようになった。
往路を戻ると、明治天皇笹川御小休所碑がある。その南に熊野神社があり、参道を中に入っていくと、篠川御所に関連する記述のある説明版があった。
その南のガソリンスタンドが安かったので、安いガソリンを補給した。会津周遊の途につき、郡山市西端の磐梯熱海温泉・ユラックス熱海温泉に入湯するころには雨が止んだ。猪苗代町の道の駅「猪苗代」で車中泊。