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新潟市西蒲区 岩室温泉 山谷古墳 菖蒲塚古墳

2024年02月26日 15時00分11秒 | 新潟県

岩室温泉・新潟市岩室健康増進センター「よりなれ」。新潟市西蒲区石瀬。

2023年10月1日(日)。

良寛が住んだ国上山の見学を終えて新潟市方向へ北上し、弥彦神社近くを通って、12時30分ごろ丘の上にある岩室温泉の公共浴場「よりなれ」へ着いた。入浴料は500円だが、身障者は無料。旅行前に「障害者手帳で行こう」のサイトをチェックして気付いた。

受付では驚いたことに、タオル2枚(フェイスタオル、バスタオル)が貸与された。

 

このあと、山谷(やまや)古墳、菖蒲塚(あやめづか)古墳、新潟市巻郷土資料館、新潟市文化財センターを見学した。

山谷古墳。中央の丘。東麓から。新潟市史跡。新潟市西蒲区福井。

角田(かくだ)山(標高481m)南西麓を走る街道の四つ角にある飴屋付近で停車し、場所を尋ねようとしたら、壁に案内図があったので、西方向へ進むと、神社跡地があり、古墳方向への道標と林道があった。付近の路肩に駐車して林道を5分ほど歩くと、丘上の古墳への階段があり、折れ曲がった登り坂を5分ほど登ると、山谷古墳が出現した。

山谷古墳の形状は前方後方墳で、全長37m。矢垂川に近い角田山南麓から東へ張り出した馬背状の尾根の先端部、標高約55mの位置に築造されている。

古墳時代前期中頃4世紀中頃の造営と推定され、新潟県内では、弥彦村の「稲場塚」に次いで古い古墳と考えられ、東方約3kmの地点にある前方後円墳・菖蒲塚(あやめづか)古墳に先行する。墳土下からは軍事的な性格の強い弥生時代後期の高地性集落も確認され、眼下に弥生~古墳時代の拠点集落であった御井戸(おいど)遺跡を見下ろす。

本古墳は、後方部を西に向け、前方部が三味線の撥形に開いた前方後方墳で、後方部は約13mのやや長方形で、墳頂部の高さは約4m。

同形の古墳としては北陸地方2番目の規模をもつ能登半島の「雨の宮1号墳」と墳形が酷似する。

墳丘北側斜面には、前期古墳では異例の周堤をもつ濠や方形壇の造出しを設け、後方部の墳麓に並ぶ2つの小マウンドも特徴的である。

尾根を削って造成した後に土を盛り上げて墳丘を完成させ、そのあとに古墳の後方部の頂上を掘り込み、その底に棺を置いてから土で覆い密閉してある。

後方部中央の埋葬施設には、半裁した丸太の内側をくり抜いて製作した長さ4.8m、幅1.4mの長大な割竹形木棺を用い、遺体は東枕で葬られていた。中には鉄製品3点、管玉7点、ガラス小玉34点が副葬してあった。

古墳南面のくびれ部から、古墳の上から転落したと見られる4世紀頃の土師器の壺と甕が見つかった。

前方部から後方部。

後方部。

後方部から前方部。

後方部くびれ部。

国史跡・菖蒲塚古墳。新潟市西蒲区竹野町。

狭い道や農道の坂を登った坂上の台地にある。

菖蒲塚古墳は、角田山から東にのびる標高26mの台地先端部に位置し、周辺は「越王」(こしわ)と通称されている所である。古墳が築かれた時期は古墳時代前期の4世紀後半と考えられる。

全長53m、後円部径33m、高さ3m、前方部高さ2mと柄鏡形の古式前方後円墳であり、新潟県最大クラスの古墳であるとともに、日本海側北限の前方後円墳として著名で、隣接して直径21mの円墳である隼人塚古墳がある。

古墳復元平面図(右が菖蒲塚)。

両古墳とも緩やかな傾斜を持つ台地の上に古墳の形や規模を決めたあと、それにあわせて外周の地面を掘り込み(周溝)、その際に出た土を盛り上げて墳丘を築いている。その際、土質の異なる土を交互に盛るなどして強化する工夫がなされている。

菖蒲塚古墳の副葬品としては、江戸時代の盗掘で出土した鼉竜鏡(だりゅうきょう)1面が新潟県の有形文化財に指定されている。径22.7cmの仿製鏡(ぼうせいきょう)である。ほかに、勾玉1点、管玉7点がある。また、管玉の中には鉄分が付着したものがあり、鉄製品も一緒に副葬されていたことが分かっている。

他に、周溝内からは壷も出土している。古墳の上から転落したと考えられ、特徴からは古墳時代前期の後半に作られたとされる。

墳丘上から西に弥彦山を眺める。

西へ500mほどの同じ続きの台地にある南赤坂遺跡では、北海道の続縄文土器や折衷土器、石器類などがまとまって出土しており、この種の遺跡の南限となっている。北方から来た人々が一定期間滞在した居留地であった可能性が高く、集落の盛衰は菖蒲塚古墳の築かれた時期と一致する。菖蒲塚古墳に葬られた首長が力をつけていった背景には、そのような北方の人々との交流も大きかっと考えられる。

また、菖蒲塚古墳の墳丘は、平安時代の終わりから室町時代にかけて経典を埋納した経塚としても利用されており、当時この地が神聖な場所として広く人々に認識されていたことが分かる。

 

このあと、新潟市巻郷土資料館を見学した。撮影禁止であったが、職員が案内してくれて「越後毒消し」や「のぞきからくり」を興味深く拝見した。

その後、西区の新潟市文化財センターへ向かい、古墳時代の展示などを見学した。

新潟県 弥彦神社 国上寺 良寛が住んだ五合庵・乙子神社



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