京都国立博物館特別展「法然と極楽浄土」。
2024年10月22日(火)京都へ行き、4つの美術展を見てきた。
京都国立博物館特別展「法然と極楽浄土」。
京都市京セラ美術館「京都市立芸術大学移転記念 特別展 巨匠たちの学び舎 日本画の名作はこうして生まれた 」、
「Gucci Cosmos 」、
京都文化博物館「生誕140年記念 石崎光瑤 若沖を超えろ!絢爛の花鳥画 2024.9.14 〜 11.10」。
京都国立博物館「法然と極楽浄土」の特集を、NHKEテレ日曜美術館で見た。東京国立博物館では開催済み。「山越阿弥陀」は普遍的な画題だ。
11月12日から12月1日まで展示される「国宝 綴織當麻曼陀羅」(奈良・當麻寺)は前期では同種絵画が展示されていた。当麻寺には、1980年代から一度行こうと思っていたが、当麻曼荼羅は非公開、練供養会式 は 4月14日に限定なので、ようやく2000年代後半に伽藍のみ見学した。
京博だけではコスパが悪いので、ネットで検索すると京セラ美術館と京都文化博物館にも興味を引く展示があった。前提として障害者無料の美術展を抽出。
JR東海道線の名古屋から京都まで、障害者割引で往復2600円。8時ごろ名古屋駅を出て、京都駅に10時30分ごろ着いた。バスも考えたが歩くことにして11時ごろ京都国立博物館に到着。行列はないが、展示室には多くの入場者がいた。京博には2022年10月の特別展「京(みやこ)に生きる文化 茶の湯」以来。
国宝級の名品は11月6日からの後期に多く出品されている。
撮影は原則禁止で、後半の「仏涅槃群像」のみ撮影可能だった。
「仏涅槃群像」
京都国立博物館特別展「法然と極楽浄土」 2024.10.8 〜 12.1。
浄土宗の祖・法然(法然房源空、1133~1212)は、平安時代末~鎌倉時代初めの混迷期、「南無阿弥陀仏」の名号を称えることによって誰もが等しく阿弥陀仏に救われ、極楽浄土に往生できることを説き、多くの支持を得ました。
本展では、令和6年(2024)に浄土宗開宗 850年を迎えることを機に、法然による開宗から、弟子たちによる諸流派の創設と教義の確立、徳川将軍家の帰依によって大きく発展を遂げるまでの歴史を、国宝、重要文化財を含む貴重な名宝によってたどります。
第1章 法然とその時代
相次ぐ戦乱、頻発する天災や疫病、逃れられない貧困など、平安時代末期の人々は苦悩に満ちた「末法(まっぽう)」の世に生きていました。この時代に生を享けた法然は、比叡山で天台僧としての修行を積みますが、43歳の承安5年(1175)、唐の善導(ぜんどう)の著作によって専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道を選び、浄土宗を開きました。
「南無阿弥陀仏」と称えるだけで救われるという教えは、幅広い階層の信者を得ます。しかし、既存仏教からは念仏停止が強く求められ、ついに法然は75歳のとき、讃岐(香川県)へ配流されるに至りました。やがて帰京しますが、その翌年に80歳で往生を遂げます。
本章では、浄土宗の歴史のはじまりである、祖師法然の事跡や思想をたどります。
第2章 阿弥陀仏の世界
法然は、阿弥陀如来の名号「南無阿弥陀仏」をひたすらに称(とな)える専修念仏をなにより重んじました。貴賤(きせん)による格差が生まれる造寺造仏などは必要ないと説いており、法然自身は阿弥陀の造像に積極的ではありませんでした。しかし、それを必要とする門弟や帰依者が用いることは容認していたようで、彼らは阿弥陀の彫像や来迎するさまを描いた絵画を拝しながら、日ごろ念仏を称え、臨終を迎える際の心の拠りどころとしたのです。
多くの人々の願いが込められた阿弥陀の造形の数々は、困難の多い時代、庶民にまで広がった浄土宗の信仰の高まりを今に伝えています。
第3章 法然の弟子たちと法脈
法然のもとには彼を慕う門弟が集い、浄土宗が開かれました。法然没後、彼らは称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の教えを広めようと、それぞれ精力的に活動をおこないます。
九州(鎮西、ちんぜい)を拠点に教えを広めていった聖光(しょうこう、1162~1238)の一派である鎮西派は、その弟子良忠(りょうちゅう、1199~1287)が鎌倉などを拠点として宗勢を拡大しました。
また、証空(しょうくう、1177~1247)を祖とする一派である西山(せいざん)派は、京都を拠点に活動を展開し、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』を図示した「綴織當麻曼陀羅(つづれおりたいままんだら)」を見出し、その流布に大きな足跡を残しました。
第4章 江戸時代の浄土宗
浄土宗中興の祖聖冏(しょうげい、1341~1420)が伝法制度を確立し、その弟子聖聡(しょうそう、1366~1440)が江戸に増上寺(ぞうじょうじ)を開くと、体系化された浄土宗の教義は全国へ普及されていきました。その流れは三河において松平氏による浄土宗への帰依へとつながり、末裔の徳川家康が増上寺を江戸の菩提所、知恩院を京都の菩 提所と定めたことにより、教団の地位は確固としたものになりました。
本章では、将軍家や諸大名の外護(げご)を得て飛躍的に興隆した江戸時代の浄土宗の様子をたどり、篤い信仰を背景に浄土宗寺院にもたらされ、現代に伝えられた、多彩でスケールの大きな宝物を紹介します。