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福島県磐梯町 国史跡・慧日寺跡 慧日寺資料館 徳一 名水百選・龍ヶ沢湧水

2024年07月06日 16時29分28秒 | 福島県

磐梯山慧日寺資料館。福島県磐梯町磐梯寺西。

2024年5月29日(水)

猪苗代町の猪苗代城跡を見学後、国史跡・慧日寺(えにちじ)跡へ向かい、駐車場に9時頃に着いた。慧日寺資料館は9時開館である。

資料館が視界に入らず困惑しながら歩道を進むと、樹木や池に囲まれた資料館が見えてきた。入館すると、受付の女性が私は名古屋出身ですと話しかけてきて、ここはどうして知りましたかと尋ねてきた。慧日寺は、山川出版社の福島県の歴史で知ったが、一般的には無名だ。写真撮影は禁止なので、5分ほど歩いて復元された史跡公園へ向かう。

慧日寺平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一(とくいつ)(8世紀半ば~9世紀前半)によって開かれた。徳一はもともと南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。慧日寺は、民間信仰、ことに山岳信仰と密接な関係をもち、磐梯山を奥院として成立したものと考えられる。

また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどした。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与が跡を継いだ。この頃の慧日寺は会津一円を支配し、僧兵集団を保持し、封建領主としての権力をそなえており、寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。

「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、平将門の最後の合戦の時に、三女が恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称して留まり、将門の死後33年目に郷里(茨城県坂東市)に帰ったと伝わる。

平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。

平安末期から鎌倉時代にかけてのころ、密教化-修験化の方向をたどり、鎌倉末期から室町時代にかけて磐梯修験と強力な結びつきをもったと思われる。領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。

しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、隣地に「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。

国史跡・慧日寺跡。

慧日寺の遺構は「本寺地区」「戒壇地区」「観音寺地区」の三カ所に残されている。

「本寺地区」は慧日寺の中心伽藍があった場所で、発掘調査によって、創建当初は中門、金堂、講堂、食堂と推定される主要な建物が南北一列に建立されたことが判明している。

現在、中心伽藍跡は史跡公園として整備されており、2008年(平成20年)には金堂が、翌2009年(平成21年)には中門が復元された。さらに金堂内に復元された薬師如来坐像が2018年(平成30年)7月30日に公開された。

復元地域には右横上にある受付施設から入場する。

会津へ伝わった仏教は、平安初期、奈良の東大寺や興福寺で学んだ僧・徳一が、山の神、磐梯明神を守護神として会津磐梯山の麓に開いた慧日寺によって会津一帯に広められた。慧日寺は、自然崇拝を素地とする会津の磐梯山信仰を受け継ぎ、仏教的に組み替えることで会津の信仰の中心となった。さらに徳一は会津五薬師ほか多くの寺院を開いて、人々の素朴な信仰を仏教、薬師・観音信仰に取り込んでいった。こうしたことにより会津は、今も勝常寺の薬師如来坐像をはじめとする平安初期から中世、近世の仏像や寺院が多く残り、東北地方でいち早く仏教文化が花開いた地として「仏都会津」と呼ばれる。

樹齢800年を数えるエドヒガンザクラ「木ざし桜」。平安末期ごろ、慧日寺の宗徒頭・乗丹坊が挿した桜の杖がこの木になったという伝承が残る。種まき桜ともいわれ、この桜の花が咲き始めると田畑作業を始める目安とされていた。

中心伽藍の北には徳一廟が残されている。徳一廟の内部には平安時代に建立されたと推定される五輪塔があり、徳一の墓と伝えられている。

五重の石塔は、高さ2.95m、屋根と上重軸部が一石になっていて、屋根は錣葺(しころぶき)形に造られ、軒先には風鐸をつり下げた痕がある。石塔は風雨にさらされ、戦後の大雪で倒壊した際に二重目の塔身に納められた土師器の甕が発見された。昭和54年~57年にかけて保存修理を行い現在の覆堂を設けたさい、石塔の下から経石131個が出土した。経石は江戸時代末期のもので、真言宗の尊師や父母兄弟の供養のため書写され、埋納されたものと考えられる。

慧日寺周辺の住民は石塔を削り、薬として服用したこともあったので、軸部などが細くなってしまっている。この風習は慧日寺の本尊、薬師如来信仰によるものと思われる。

日本名水百選「磐梯西山麓湧水群」の代表的な湧水池である龍ヶ沢湧水が資料館前まで引水されており、水汲みに訪れる人も多い。

 

三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)は、平安時代初期の弘仁8年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

法相宗の五性各別論では、衆生が本来そなえている仏教を信じ理解し実践する宗教的能力を五つに分類する。①定性声聞(声聞定姓)は、声聞の覚りである阿羅漢果を得ることが決まっているもの。②定性縁覚(独覚定姓)は、縁覚の覚りである辟支仏果が得られると決まっているもの。③定性菩薩(菩薩定姓)は、菩薩の覚りである仏果が得られると決まっているもの。④不定性(不定種性、三乗不定姓)は、以上の三乗の修行とその結果が定まっていないもの⑤無性(無種性、無姓有情)は、覚りの果を得ることができないもの。これらのうち、成仏すなわち仏果が得られるのは③④のみとなる。

 

このあと、会津若松市の会津大塚山古墳へ向かった。

福島県猪苗代町 猪苗代城跡 三浦一族・猪苗代氏累代の城



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