いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

釧路市立博物館②縄文晩期 幣舞(ぬさまい)式土器 緑ヶ岡式土器 続縄文・擦文時代

2024年07月06日 11時28分17秒 | 北海道

釧路市立博物館。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

大洞C2式土器。縄文時代晩期中葉の土器。

大洞式土器は昭和12年、故山内清男氏が岩手県大洞貝塚などの調査成果をもとに、従来の亀ヶ岡式土器を整理改称したもので、B、BC、C1、C2、A、A’式の6型式に細分される。胴部にLR縄文地に「工字文」が描かれるものが多い。

大洞系土器は東海、近畿地方はもとより、近年では九州、中国、四国地方でも出土が目立っている。

北海道においては、第Ⅰ期(大洞B・BC式土器期)が北海道渡島半島の西南端と石狩勇払低地帯付近に存在し、第Ⅱ期(大洞C1式土器期)は奥地へ進出して小樽市郊外の余市町から石狩低地帯の東側を通って苫小牧を結ぶ線まで、第Ⅲ期(大洞C2式土器期)は、小樽市から南の室蘭市を結ぶ線まで達し、第Ⅳ期(大洞A式土器期)は、遠く宗谷岬の稚内市大岬オニキリベツから、東は釧路市の緑ヶ岡遺跡になるとされている。

道東北部では、栗沢式など縄文時代後期末ないし晩期初頭に至る土器のあと、大規模な遺跡が出現しないまま晩期終末をむかえるが、ここに至って、ふたたび中期以来の土着土器の隆盛期をむかえることになる。幣舞(ぬさまい)式土器とその流れをくむ緑ヶ岡式土器である。

幣舞(ぬさまい)式土器。

幣舞式土器は、縄文時代晩期後半の道東部を中心に拡がる在地色の強い土器である。釧路市南大通三丁目の幣舞遺跡から出土した土器をもとに設定された。

幣舞遺跡は、釧路川の河口を見おろす高台にあったため、早くから官庁街として開け、昭和三十七年の釧路市立郷土博物館による部分的な調査が行われただけで、大部分が破壊されて消滅した。昭和四十三年に付近の道路工事中に矢柄研磨器と日ノ浜式の精製壷を伴う晩期の墓壙が発見されたことから、墓地遺跡であったことが想定できる。

幣舞式土器は丸底の器形が特徴で、多種の器形で構成されることである。深鉢を主体として、浅鉢、壷形、舟形、片口、皿形の注口、双口土器などがある。特に深鉢の大形品が多いが、実用品とは考えられない小形品もしばしば見られる。底部は丸底や丸底気味の不安定なものが多い。

文様は縄文が多用されるが特に深鉢、浅鉢など日常の煮沸用土器に多い。普通は縄文の地文の上に、沈線文、縄線文、撚糸文などが施される。舟形土器は、縄文を地文とし、太めあるいは細めの沈線文を配し全面を真赤にベニガラを塗布したものも多い。

深鉢や壷形土器の口頸部には、沈線文や撚糸文が段状に施されることが多い。また、胴部まで縦にくねくねと鋸歯状(のこぎりばじょう)に施文された例がしばしば見られ、この型式の特徴の一つとなっている。

幣舞式土器には道南部の日ノ浜式の精製朱塗り壷形土器が伴出することがしばしば知られている。幣舞遺跡では完形壷形土器一個と数個体分の破片が出土している。

舟形土器は舳先に相当する部分が片方しか残っていないものの、舟のような形に復元される。こうした変わった形の土器は、墓への供え物など特殊な用途に使われたらしい。

幣舞式土器に伴う石器には、石鏃、石槍、靴形石匙(ナイフ)、搔器、削器、磨製石斧、矢柄研磨器などがある。特徴的な石器としては、黒曜石や玉隋などから作った靴形石器がある。

靴形石器はエスキモーが近年まで陸獣や海獣の解体処理に使用した石器に類似し、千島列島、アリューシャン、カムチャツカ方面の遺跡からも出土するところから、この方面から道東北部に伝播してきたものと考えられる。また、釧路市貝塚町一丁目の晩期の土壙墓から、被葬者の頭蓋骨下数センチメートルのベンガラ中よりソラ豆大の鉄片が出土している。このことから、道東部の縄文時代晩期には、すでに金属器の使用される時代に入っていたことを示している。

緑ヶ岡式土器。

緑ヶ岡式土器は、器形はヌサマイ式のそれを踏襲しているが、亀ヶ岡系の土器を伴わない。壷形土器や深鉢形土器の口縁部に工字文くずれの沈線文、縄線文などがあらわれ、舟形土器はヌサマイ式よりも薄手となり、胴部に無文帯をもつなどのちがいがある。また貝殻腹縁文や条痕文、撚糸文の施文をされるものもある。緑ヶ岡遺跡や幣舞遺跡の発掘で、ヌサマイ式の上層から緑ヶ岡式土器が出土しているので、ヌサマイ式に後続し、その新しい部分は続縄文時代に入るとみたほうが妥当である。(新札幌市史 第1巻 通史1)

緑ヶ岡遺跡は、釧路川河口から3km上流の左岸台地の段丘端、標高20mのところにあり、縄文時代晩期の墓地遺跡で、緑ヶ岡式土器の標式遺跡である。

1963年の調査では縄文時代晩期の墓が33基発掘された。うち1号基は直径2.25mもある大きな墓で、壁近くにしゃがんだ姿勢で8人の遺体が合葬されていた。

8体合葬の墓には、在地の幣舞式土器とともに、道南の日ノ浜式土器の壷などが出て注目された。他の墓からは、イノシシの下顎骨、コハク玉、貝玉などが出土した。別な墓では漆塗り櫛を頭部につけたままの状態のものもあった。道南部から移入された亀ヶ岡式土器も出土している。

亀ヶ岡式土器の終末は、青森県など東北地方で大洞A、A′式や砂沢式とよはれている形式である。北海道の南部や東北地方では、この土器形式が縄文土器の中で最も新しいものとなる。

この形式の前までは大洞C2式のように東北地方や北海道南部で同じ形式の土器が分布するが、この終末期になると工字文や山形の沈線文という共通する文様がありながら、地域的傾向を帯びるようになり、岩手県、青森県、函館周辺、尻岸内などではそれぞれの地域で特色を帯びるようになる。

昭和26年に市立函館博物館が七飯町の武佐川遺跡を調査したが、その上層から大洞A′式の浅鉢形土器が出土し、そのすぐ下から工字文と変形工字文のある土器群が出土した。これは大洞A式、砂沢式とは異なるもので、その後これと類似の土器群が尻岸内町(現函館市、旧恵山町)日ノ浜遺跡から出土して、日ノ浜式と呼ばれるようになった。(函館市史)

続縄文時代。

北海道の約2000年前から1300年前の時代を続縄文時代とよぶ。当時は自然の食糧に恵まれていたことや、寒冷な気候のために米作りが広まらなかったこともあり、縄文時代と同じ生活が続いた。

釧路地方ではサハリンやカムチャツカ半島、千島列島などから海の生きものを取る生活を中心とする文化の影響を受け、海岸大地に多くの集落が作られている。

この時代の後半になると河川に沿って、内陸へも生活の場を広げ、動物や魚、木の実などを取ってきて、食料にする暮らしが続いた。この時代の終わり頃には旧石器時代から使われてきた石器は姿を消し、次第に鉄製品に変わっていった。

この時代は土器形式から次の3種に代表される文化に編年される。すなわち恵山(えさん)式文化、江別式文化、後述する北大式文化である。それらは細分化される形式で、続縄文の前期を恵山式、中期を江別式、後期を北大式に時代区分すると、恵山式は弥生時代中期に、江別式は古墳時代中期に、北大式は古墳時代後期後半に比定される。

続縄文文化の初めのころは、北海道の南西部と北東部は異なる文化が広がっていた。

南西部には、道南の恵山(函館市)から名付けられた「恵山式土器」を用いた人々がいて、「恵山文化」と呼ばれている。恵山文化には多くの貝塚が残されており、釣り針やモリなどがたくさん見つかっている。このことから海の生業に依存していた文化だったと考えられる。また有珠モシリ遺跡から南海産のイモガイ製貝輪が発見されるなど、南の本州との交流があったことがわかっている。

また北東部では道南と異なる土器が使われ、副葬品として「コハク玉」が用いられた。芦別市の滝里安井遺跡からは約4000個の道内最大のコハクの首飾りが見つかっている。道北部のコハクにはサハリン産とされるものも見られ、北方との交流があったと考えられている。

続縄文文化後半には、北海道全域に「後北式土器」が広がり、この土器はさらに、東北地方や新潟県にまで広がった。このころは東北地方北部にも、続縄文文化が広がったと考えられる。

続縄文時代。深鉢。

左、興津式(おこつしき)土器。釧路市三津浦遺跡。

右、興津式土器。興津遺跡。口縁部に縄の刻みを施した山形突起が一対配される。文様は隆線、縄線文、刺突文からなる。山形突起の下には円孔をもつボタン様の貼付けがある。隆線はその両側と山形突起の無い位置にも一対ある。

興津式土器続縄文時代前半の土器。胴部が張り出して湾曲し、口縁部がくびれて外反する器形が多い。沈線文の消失、横走する帯縄文、口縁部下のボタン状突起、垂下する貼付文などの特徴がある。

道東部太平洋岸、根釧原野、知床半島南岸の地域を中心に分布する。下田ノ沢1式土器に先行する。

中奥。深鉢。下田ノ沢1式土器。釧路市三津浦遺跡。

下田ノ沢式土器。厚岸町内の下田ノ沢遺跡で発掘された続縄文時代(紀元前3世紀~紀元7世紀)の土器。この土器は「下田ノ沢式土器」といい、縄を転がして付ける縄文のほか、縄を押し付けたり(側面圧痕)、粘土紐を貼り付けたり(貼付文)、棒状の工具で内側から突く(突瘤文)という手法で作られていた。下田ノ沢I式土器は興津式から変遷し、突瘤文が特徴である。下田ノ沢II式土器は2本1単位の縄線文が特徴である。

下田ノ沢I式土器は、続縄文時代前期、下田ノ沢II式土器は続縄文時代中期(紀元前1~紀元1世紀頃)に相当する。

擦文時代。

北海道では約1300年前から700年前を擦文時代と呼び、現在とほぼ同じ自然環境のもと、動物や魚、木の実などを取って暮らしていた。

釧路川の河口近くから川筋に沿って、集落ができ、今も竪穴住居のあとが残されている。この時代は土器や鉄製品、機織りの技術、かまどをもつ竪穴住居など、本州文化の強い影響を受けている。

擦文土器には深鉢と高坏(たかつき)がある。擦文の名称は土器表面を整えるために木片が用いられ、すった木目あとが残されたことによる。木片で文様が刻まれ、縄文時代から使われてきた、縄目の文様は姿を消す。

深鉢。擦文時代。釧路市内遺跡。

湖州鏡。

中国、南宋の時代に浙江(せっこう)省湖州地方で作られた鏡で市内材木町の擦文時代の竪穴住居跡から出土した。

湖州鏡には円形、四角形などの様々な形があり、この鏡は四角形である。鏡の背面にいくつかの文字が刻まれているが、「こしゅうしん」という文字が読み取れる。

同じような鏡は東北から近畿地方の日本海側にかけて分布しており、展示している鏡と同様の銘を持つ四角形の鏡は山形県羽黒山の出羽三山神社前にある鏡池からまとまって見つかっている

北海道ではこれまで発掘された例がなく、たいへん貴重な出土品である。この鏡は擦文時代終わりに近い12世紀から13世紀頃のものと思われる。

釧路市立博物館①埋蔵文化財調査センター 釧路炭田 縄文土器 東釧路式土器 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。