稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。
2022年6月18日(土)。
間宮林蔵「東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)」(国立公文書館内閣文庫蔵)。
間宮林蔵は,幕府の命により1808(文化5)年調役下役元締松田伝十郎と樺太に派遣され、1809年にかけて、樺太の西岸を北上し、樺太が島であることを発見するとともに(間宮海峡の発見)、アムール川(黒竜江)下流地域ののデレン(満洲仮府)を訪れ,東韃(とうだつ)地方の調査を行った。
間宮林蔵のデレンへの旅では、樺太島のノテトという集落のニヴフ(ギリヤーク人)の首長がデレンまで朝貢に行くのに同行した。またデレンの「満洲仮府」で間宮林蔵が見たのは、北方の先住民が清朝の役人に黒テンの毛皮を朝貢する姿であり、また先住民の間の活発な交易のありさまであった。
間宮林蔵が語り、村上禎助が筆写して挿絵を入れ、1811年(文化8年)幕府に提出された「東韃地方紀行」「北夷分界余話」(ほくいぶんかいよわ)には、黒竜江下流のデレンの集落に清朝によって設けられた「満州仮府」における山丹交易や北方諸民族が清朝の役人に進貢するようすなどが記録されている。
清朝時代の東北地方は、満洲発祥の地として、清の支配下にあった他の地域とは異なる統治が行われた。すなわち、八旗制度による人と土地の支配である。東北地方の広大な地域は盛京、吉林、黒竜江の3つの地域に分割されて、3人の将軍がそれぞれを管轄した。さらに各地域は将軍の下に置かれた副都統が管轄する地区に分割され、それぞれに満洲八旗(駐防八旗)が分属した。
しかし、その中でも最も遠隔地であるアムール川下流域と樺太の支配は、さらに特殊な統治方法がとられた。すなわち、朝貢制度を柱とした間接統治である。順治年間(1644年~61年)には、この地域の支配拠点と対ロシア前線基地が牡丹江中流域の寧古塔にあった。
1689 年、ネルチンスク条約によってアムール川流域は清の領土となった。翌 1690 年、清は樺太北部に渡り住民 53 戸を辺民に組織した。その後清は樺太の中部と南部に進出した。辺民のなかには樺太北部のニヴフ、南部の西海岸のナヨロ、東海岸のタライカ・コタンケシなどに居住するアイヌも含まれているが、清の勢力が樺太全土に及ぶことはなかった。
清は、アムール川下流域・樺太を特別な地域として一般人の立ち入りを禁止する一方、この地域の 2398 戸を辺民に組織した。辺民は 1 戸ごとに黒テンの毛皮を毎年 1 枚ずつ献上する見返りに、絹・木綿・針・櫛などが与えられた。
1714年(康煕 53年)に牡丹江が松花江と合流する地点に三姓(さんしん)が築かれ、元毛皮貢納民から組織された満洲八旗が駐屯するようになり、1732年樺太のアイヌとニヴフの祖先を中心とする人々が毛皮貢納民に加えられ、彼らから毛皮を徴収し、恩賞を与える業務が三姓副都統に割り当てられた。1780年(乾隆 45年)には吉林将軍の下に寧古塔副都統と三姓副都統がアムール川下流域水系(松花江、ウスリー川の流域も含む)の広大な地域の統治を担当する支配体制が整えられた。
アムール川下流域や樺太には辺民制度下に置かれたことから満洲八旗は編成されず、地域の有力者に特殊な地位と職を与え、定期的な朝貢の義務と地域の秩序維持を課すという支配体制が採用された。
毛皮の収貢と恩賞の下賜に関する儀礼と種々の手続を直接管轄するのは副都統だったことから、毛皮貢納民たちは原則、寧古塔あるいは三姓まで出向かなければならなかった。
しかし、樺太やアムール川の河口近くの毛皮貢納民たちは、あまりにも遠かったために、途中に出張所が設置されて、彼らはそこで毛皮の支払いと恩賞の受け取りをすることができた。それがキジあるいはデレンの「満洲仮府」である。そこに派遣されたのは寧古塔副都統衙門あるいは三姓副都統衙門で編成された役人と兵士からなる派遣団で、副都統の配下にあるニルの長である佐領、あるいは佐領の下の驍騎校という職にいる者が統率者となり、その補佐役として領催または書記役の筆帖式がつき、さらに披甲(兵士)数名が人と荷物を護衛するという形になっていた。彼らは出張所まで行き、主に樺太から来貢するニヴフやアイヌの人々からの毛皮貢納を受けた。
日本の進出が本格化する 18 世紀末には、清は樺太から撤退しており、日本人が清の勢力と直接に接触することはなかった。
松田と間宮は、1808 年の調査の結果、樺太の大部分が外部勢力の支配化にあり、辺民の職を貰っていることを発見した。しかし、この段階では外部勢力が何者であるのかは明らかではなかった。この外部勢力が清であることを明らかにしたのは、1809 年の間宮林蔵の調査である。
間宮は、デレンで行われているのは貢納を行う政治的な儀式であり、単なる経済的行為ではないことに気づくとともに、辺民組織が、清がアムール川下流域・樺太に統一的に設けた行政組織であることを理解した。樺太を含むアムール川下流域の政治情勢を正確に理解できた日本人は、間宮林蔵が最初であった。
間宮林蔵が記録したデレンの写生画。柵の周囲には諸民族の仮小屋が建つ。
満州仮府というのは、清国の官人が、満州の三姓(さんしん)から出張して来て、黒竜江沿岸はじめ、カラフトや沿海州方面からやって来る酋長の貢物を受けるところであった。
デレンから対岸を見た写生画。現在の山並みとよく似ていた。
林蔵の記録によると、デレンは一辺25メートルほどの四角の敷地を二重の柵で囲い、中に清朝役人が毛皮を徴収する小屋があった。それを取り巻くように常時500人もの諸民族が集い、仮小屋に泊まりながら毛皮や食料などの物品を交換し、大いににぎわっていた。
「船盧中置酒」(国立公文書館蔵『北夷分界余話』より)右奥が間宮林蔵自身。
間宮は、デレンの満洲仮府でトジンガ・ボルフンガ・フェルヘンゲという 3 人の清の官吏と会った。間宮は、トジンガらから貰った名刺の文字「正白旗満洲委著筆帖式魯姓名仸勒恒阿」、「鑲紅旗六品官驍騎校奨賞藍羽葛姓名撥勒渾阿」、「現任官職正紅旗満洲世襲佐領姓舒名托精阿」から、彼らが清の官吏であることを知った。
いずれも1714年の三姓での満洲八旗編成によって毛皮貢納民から八旗に組織された人々である。托精阿は、このとき佐領に任じられた族長の直系の子孫である。
毛皮貢納民たちは役人たちを畏れている様子もなく、親密な関係にあったようである。そこには 50~60人の役人が三姓から川を下って来ていて、その内の3人が高位の役人で、上から佐領、驍騎校、筆帖式だった。
間宮林蔵は彼らに招かれて彼らが居住していた船に乗り込み歓待されている。林蔵が官船の一室で3人の上級官吏たちと酒を酌み交わしながら談笑する様子が生き生きと書かれた挿絵がある。林蔵と満洲の役人たちは恐らく漢文を使った筆談でコミュニケーションを取ったと考えられる。そのために当初彼は中国内地から来た人物と思われた。
「進貢」(国立公文書館蔵『北夷分界余話』より)中央が托精阿、右が撥勒渾阿、左が仸勒恒阿と考えられる。
間宮林蔵は出張所デレンでの状況しか見ていないが、毛皮収貢と恩賞授与の儀礼(朝貢儀礼)は次の2つの過程で構成されていた。
まず、デレンに到着した毛皮貢納民(「諸夷」)は船を岸に繋ぎ終わると一団の長がまず役人(「官夷」)の船に行き、笠(白樺樹皮製)を脱ぎ、その役人に向かって3回低頭して、来貢を告げる。すると役人は彼に酒を振る舞い、アワ(「精粟」)を3~4合与える。これが第1の儀礼だという。
仮府の中での儀礼(「進貢の礼」)は下役の役人が柵の門外に出て貢納民の役職者を1人ずつ呼び出して仮府の中央の建物に入れる。そこでは上級役人3人が床上で椅子に腰掛けている。貢納民は笠を脱いで土間で跪き、3回低頭してクロテンの毛皮1枚を捧げる。すると中下級役人がそれを取り次いで、上級役人の前に進める。それを確認すると恩賞として上級民には絹織物(「錦」)1巻(「長7尋」)、中級民には緞子「純子」)4尋、庶民には木綿4反(林蔵にいわせると「下品」)、その他、櫛・針・鎖・袱・紅絹(3尺)が与えられた。これが第2の儀礼で、朝貢儀礼の本番である。
この2つの儀礼以外に出張所では全く儀式張ったことはなく、あとは役人も毛皮貢納民も自由な雰囲気での商取引が行われていたようである。
稚内市北方記念館を12時前に出て、ガソリンスタンドに立ち寄り、枝幸町の「オホーツクミュージアムえさし」へ向かう途中、13時前に宗谷岬に着いた。