稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。
2022年6月18日(土)。
抜海岩陰遺跡。
抜海市街地のはずれ、抜海岩と呼ばれる砂岩質の岩陰にある。抜海岩は高さ30m程の小山で、大岩が小岩を背負うように見え、アイヌ語の「パッカイ・ペ=子を背負う・もの」に由来し、岩の下にある海食小洞窟が先史時代の生活の場として利用されていた。
昭和38年に発掘調査され、遺跡はオホーツク式土器が大半を占めるが、少数の擦文式土器と続縄文時代の後北式土器も出土している。オホーツク文化の初期に位置し、富磯貝塚や泊内川左岸遺跡と時期的に近い。
オンコロマナイ2遺跡
宗谷岬に近い稚内市宗谷村清浜、恩頃間内橋近くにある3~4世紀頃の集落遺跡がオンコロマナイ遺跡(オンコロマナイ2遺跡)である。司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズ、「オホーツク街道」にも考古学者の泉靖一が発見したオホーツク遺跡として紹介されている。
オンコロマナイ川河口左岸の海岸砂地に営まれ、オンコロマナイ川によって削られた崖に薄い貝層が露出し、川岸から50m程の拡がりであった。昭和34年東大の泉靖一助教授を中心とする東大文化人類学教室の発掘調査によって続縄文時代の層から5体の人骨が出土し良好な資料として有名である。昭和41~43年にも調査が行なわれ、3体の人骨と縄文時代晩期~続縄文・擦文・オホーツク・アイヌの遺物が検出されている。
8体の人骨は「オンコロマナイ人」として詳しく報告され、額が広く顔の高さが低く幅が広い、眼窩は横長の長方形で眉間が発達し、鼻根部が立体的で下顎枝の幅が非常に広いなどの特徴がある。出土し整理された土器・石器などの発掘資料は北方記念館に展示されている。
2002年度秋季大会シンポジウム「環オホーツク研究の新しい視点」報告
考古学からみた環オホーツク海交易
菊池俊彦*北海道大学大学院文学研究科.◎2003日本気象学会
オホーツク文化には中国の松花江流域の同仁(どうじん)文化(紀元後5~10世紀),アムール河下流域の秣輻(まつかつ)文化(紀元後4~9世紀)や女真(じょしん〉文化(10~13世紀〉の遺跡から出土する土器・鉄器・青銅製品と共通,あるいは類似している遺物が多く,そのことはオホーツク文化の人たちが大陸側の人たちと交流があったことを示している。
オホーツク文化の年代は,これらの大陸の諸文化との対比から,3・4世紀から13世紀と推定されている。
オホーツク文化の遺跡からは北宋銭が2枚発見され.稚内市オンコロマナイ貝塚からは煕寧重宝(1034年初鋳)が,網走市モヨロ貝塚からは景祐元宝(1034年初鋳)が採集されている。アムール河下流域の女真文化の遺跡からは多数の北宋銭が発見されているので,まさにこれらの北宋銭は中国からアムール河下流域へ,そしてサハリンのオホーツク文化の人たちの所にもたらされ,次いで北海道に運ばれて来たと見てよいだろう。
「続縄文時代人とオホーツク文化人」札幌医科大学標本館収蔵標本解説第30号(2001年 12月1日)
石田肇 琉球大学医学部解剖学第一講座教授・札幌医科大学非常勤講師
=続縄文時代人=
弥生時代は紀元前後をはさみ、九州や本州、四国を中心に弥生文化が栄える時期である。縄文時代が、北海道から沖縄本島まで、縄文文化という一つの大きな文化圏で括れるのに対して、弥生時代は、日本列島で地域性がはっきりと現れた時代と言ってよい。
北海道では、その弥生時代から古墳時代並行期を続縄文時代と呼ぶ。
北海道南部では弥生時代並行期の文化を恵山文化としているが、この時代の人骨は、虻田郡豊浦町の小幌洞窟、礼文華貝塚、室蘭市の絵鞆遺跡、伊達市には南有珠6遺跡、南有珠7遺跡、有珠モシリ遺跡などから発見されている。有珠モシリ遺跡の4号人骨は、眉間の部分の隆起が著しく、鼻骨の彎曲が大きく、いわば鼻が高い、そして彫りが深い、そして眼窩が低くやや斜めになっている。このような人骨ばかりではなく、山口(山口敏 : 元札幌医科大学助教授、前国立科学博物館人類研究部長、国立科学博物館名誉研究員)は、この集団は縄文的な形質を一方で保持しながら著しく多様化し、全体として近世の道南アイヌの形質に近づきつつあったのではないかと述べている。男性の大腿骨の最大長は平均432.5mmで、推定身長は159.5cmである。大腿骨と脛骨の長さの比(脛骨大腿骨示数)は82.7で、遠位部が比較的長くなっている。大腿骨骨体の柱状性は強いものの、脛骨の扁平性は変異があるようだ。
北海道の北部、東部では、稚内市の宗谷オンコロマナイ貝塚および江別市坊主山遺跡から出土した人骨群について、1963年に山口が報告している。その形態は、顔面が著しく低く広く、眉間の部分から鼻にかけての形態が立体的である、四肢骨では前腕の部分が相対的に長い、大腿と下腿の比を調べると下腿が相対的に長めであるという特徴がある。つまり、縄文時代からひき続き、この地域ではアイヌ的特徴がみられる。
北部九州・山口地方を中心に眉間の発達が弱く、鼻根部が平坦で、上顔高が高い頭蓋を持ち、四肢骨は長く、前腕や下腿が相対的に短く、また、断面形で柱状性や扁平性がない人骨群が現れている。その周辺地域では、頭蓋の形態は、縄文時代人的であるが、四肢骨の形態は、とくに断面形で、北部九州・山口地方群に類似する人骨群が存在する。従来、高顔・高身長対低顔・低身長という対立形式で見ることもあったが、同じ弥生時代(続縄文時代を含む)の人骨のなかで、何が「現代化」しているのかを捉える視点が大事かと思う。
=オホーツク文化人=
5世紀ごろから11世紀にかけて、北海道の北部ならびにオホーツク海沿岸に、サハリンから来たとされるオホーツク文化が広がる。この人類集団の頭蓋は、顔面の高径も横幅も大きく、全体に顔が大きい。男性の上顔高は、77mmに達する。日本国内で時代を超えて、顔面の最も高い人々である。上顎骨が大きく、頬骨は横に張り出している。また、顔面が極めて平坦なのも大事な特徴である。鼻の骨も平坦で、横から見ると頬骨と鼻が重なるくらいである。
オホーツク文化の人骨で頻度が高い項目として、眼窩上孔、舌下神経管二分、頬骨横縫合後裂残存、顎舌骨筋神経溝骨橋がある。四肢は、肘から先、膝から下の部分が相対的に短い。推定身長は、男性の平均が約160cmである。これらは、シベリア・極東の寒冷地に暮らす人々の形態と共通する。サハリンの南部にも、同じ形態の集団がいたのである。
現在まで、モヨロ貝塚などから多数の人骨が見つかっているが、時期がはっきりしたものは少ない。オホーツク文化の早い時期の人骨としては、礼文町浜中2遺跡出土の十和田式土器を伴う女性人骨、利尻町種屯内遺跡出土人骨がある。全身骨格が良好に残っている浜中2遺跡の女性人骨の形質を調べてみると、頭蓋の形態、四肢骨の形態ともオホーツク文化人骨の特徴そのものであった。いいかえれば、オホーツク文化の早い時期から、その集団は北アジアの人々そのものであったということである。
それより前の時期の人骨については、サハリンでは不明であるが、北海道東北部の続縄文時代の人骨として知られているのは、先に述べた稚内市オンコロマナイ貝塚で発見された人骨である。オンコロマナイの人骨は鼻が高いなどオホーツク文化人骨とは大きく違った形態を持ち、近世のアイヌにつながる形質を持つ。このように、オホーツク文化になって、今までの続縄文時代人と違う形態の人々が北海道の北東部に現れたと言える。
日本各地でみられた縄文時代人骨のいわば「旧石器時代人」的特徴は、弥生時代に入り各地で失われてくる。とくに脛骨の扁平性は、沖縄から東北・北海道の一部にいたるまで広範囲に失われる。また、弥生から古代にかけて、顔面の平坦さも日本の広い範囲で見られるようになる。
弥生時代に北部九州・山口群に頭蓋形態小変異の頻度の変化が見られたが、古代には関東地域まで広がる。一方、上顔高や身長の増大は、北部九州から畿内にかけての限定的な変化であったようだ。その後、咀嚼器官の退化に伴うと思われる長頭化と短頭化が見られ、現代に入っていくことになる。北海道では、オホーツク文化の進入にもかかわらず、縄文時代から近現代に至るまでの形態のかなりの安定さが見られるのが特徴であろう。
左写真は稚内市オンコロマナイ貝塚出土の続縄文時代人頭蓋。右写真は稚内市大岬出土のオホーツク文化人頭蓋(顔面比較のため、大岬頭蓋は反転してある)(札幌医大標本館展示:解剖学骨格系SK-20, SK-21)