白河市歴史民俗資料館。福島県白河市中田。
2024年6月1日(土)。
白河舟田・本沼(もとぬま)遺跡群。
白河舟田・本沼遺跡群は、下総塚古墳・舟田中道遺跡・谷地久保古墳・野地久保古墳の4遺跡で構成される。周辺に展開する関和久官衙遺跡(推定白河郡衙跡)・借宿廃寺跡からなる古代の白河官衙遺跡群と合わせて、古代白河郡の中心地を示す遺跡群である。
下総塚古墳【しもうさづかこふん】
阿武隈川右岸の、標高315mほどの河岸段丘上に立地する。江戸時代から「下総塚」の名が付された古墳である。昭和7年(1932)に岩越二郎(いわごえじろう)が石室の測量を実施、平成8・9年(1996・1997)にはほ場整備事業に伴う発掘調査、さらに平成12~14年には、国史跡指定を目指して確認調査が実施された。調査の結果、本古墳は基壇を有する前方後円墳で、墳長は71.8mを測り、横穴式石室を埋葬施設とすることが明らかとなった。年代は、出土遺物などから6世紀後半に位置づけられる。
古墳の規模・形状、埴輪の存在から被葬者は文献にみられる「白河国造(しらかわくにのみやつこ)」の可能性が考えられる。
白河国造は、天孫族の少彦名神の後裔である葛城・鴨氏族系の玉祖氏・鏡作氏と同族で東山道系の国造では、阿尺国造・思太国造・伊久国造・染羽国造・信夫国造の同族とされる。
舟田中道遺跡【ふなだなかみちいせき】
遺跡は下総塚古墳と同じ河岸段丘上に立地する。平成8~11年にほ場整備事業に伴い発掘調査を実施し、古墳時代から平安時代の集落跡とともに、一辺約70mの溝で区画された豪族居館跡を確認した。
居館跡の区画溝は、辺の中点やコーナー部に張り出しを有する。区画溝の内部には、柵列が存在し、さらにその内部には竪穴住居跡などが数棟存在している。
居館跡の時期は、区画溝から出土した遺物により6世紀後半~7世紀前半頃に位置づけられ、下総塚古墳の被葬者の次代を担った「白河国造」の本拠と考えられる。
谷地久保古墳【やちくぼこふん】
阿武隈川の左岸、標高350mほどの南に面した谷部に位置する。
大正15年(1926)に岩越二郎が石室を測量、昭和58年には関西大学考古学研究室が測量調査を実施している。平成13・15年には、市教育委員会が国史跡指定を目指した内容確認調査を実施した。
調査の結果、近畿地方の終末期古墳に共通した特徴を有する、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)を埋葬施設とし、墳形は二段築成で築かれた直径17mの円墳であることが明らかとなった。
古墳の時期は、横口式石槨を持つ古墳の例を参考として、7世紀後半~8世紀初頭頃に位置づけられる。被葬者については、古墳の構造の特異性などから、古代白河郡の郡司などの盟主層と考えられる。
野地久保古墳【のじくぼこふん】
谷地久保古墳の南東450mに位置し、東に張り出す丘陵の先端部に立地している。
平成16年に発見され、平成20年に市教育委員会が調査を実施した。墳丘の上部及び東側は削平されているが、墳丘に葺石をもつ上円下方墳(じょうえんかほうふん)であることが判明した。下方部の規模は一辺16m、上円部直径10mを測る。
谷地久保古墳と同様に横口式石槨を埋葬施設としており、当地域では同じ谷に特異なあり方を示す古墳が複数存在することは、この地が古代白河郡における盟主層の墓域であった可能性が考えられる。
このほかに、次に見学する予定だった白河結城氏の本城跡である国史跡・白川城跡の展示があった。歴史民俗資料館から近い場所にあるので入館時にアクセスを尋ねたら、出るときに受付の男性職員が地図をプリントして詳しくアクセスを教えてくれた。