古代氏族の研究 中臣氏 ト占を担った古代ト部の後裔 宝賀寿男 2014年
原日本人の主体を縄文人とか「山祇族」(やまつみぞく)とよぶ。この種族は、いまのクメール族(カンボジア人)や中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。この後裔諸氏は、中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造(紀直氏。紀臣氏は天孫族)などを代表とする。山祇族は火や月を神格化する。月神信仰。月読神社。
中臣氏の遠祖は、火神カグツチ、タケミカヅチ建御雷神で、建御雷神と子の天児屋根命一族は筑後川中流域の現・久留米市域にあった「高天原」(邪馬台国の前身)に住み、「高天原」国の博多平野・葦原中国(海神族)攻略に携わった。
中臣氏族の祖たち。天児屋根命は天孫降臨(高天原へ本拠地移遷)のときニニギノミコトに随伴した五伴緒(とものお)の一人。その後裔、AD2世紀第4四半期頃、神武東征に随行した天種子命。崇神天皇期に卜占をした探湯主。垂仁天皇期の重臣で祭祀を担当した大鹿島命。
中臣一族は広く神祇及びト占関係の職務について朝廷に仕えた。
神武東征と天種子命、他氏族。
天種子命は高天原の支国・筑前「日向」(福岡市西部・糸島市域)あたりから神武東征に付き従ったもので、大和王権成立以前からの数少ない臣下であった。鹿占により、宮都を畝傍山北麓の橿原に選定した。
天孫族・物部氏の先祖は先に大和に在って、神武が大和入りしたときに長髄彦を討って降伏した。海神族・三輪氏の先祖も大和先住で神武方に転じた。海神族・倭国造の先祖珍彦は播磨灘あたりで神武に従って海上の道案内をした。山祇族の大伴氏・紀伊国造の先祖は先に紀伊に入っていて、紀ノ川河口部の名草郡で神武に従った。
天日別命は天種子命の兄弟で、伊勢国造の祖。神武の大和入りのとき、伊勢に行って伊勢津彦を鎮定した。伊勢津彦は天孫族で出雲国造や物部氏と同族、後裔は相模・武蔵の国造。
伊勢国造は伊勢北部を領域とし、中臣伊勢朝臣、伊勢朝臣となる。平安前期の伊勢朝臣老人(おとな)の娘・継子は平城天皇の妃となり、高岳親王を生む。室町幕府執事の伊勢氏は実際には後裔。
中臣氏の初期の分出支族(崇神前代の頃まで)。
天種子命の子で春日県主の祖・大日諸命。春日一族からの天皇妃が数人おり、春日県主のほうが中臣氏の本宗だったか。天種子命の3代後の伊賀津臣命のとき、兄弟に恩智神主、添県主、長柄首。次代に伊香連など、次代に飛鳥連、狭山連や伊豆・武蔵・常陸の卜部の祖。
近江の伊香連。天孫族の三上祝は、鍛冶部族・額田部連、凡河内国造、山背国造と同族で祖神は天目一箇命で物部氏とも同族。三上祝と初期中臣氏が通婚し、伊香連が生まれる。伊香具神社を祀る。神奈備山は賤ヶ岳で香具山とよんだ。築造した古墳群が古保利古墳群。前方後方墳の小松古墳は4世紀前半の築造。
初期中臣氏の本拠。崇神前代までは大和の香具山周辺。4世紀半ばから、大和北部の添郡を経て、生駒西方の河内・枚岡あたりに展開。平岡連となる。地域豪族の平岡連と伴造の中臣連の2系統に分かれ、本来は河内の平岡連の系統のほうが本宗家的な存在であったことも考えられる。
「イカツ」は三人いた。伊香津臣命。雷大臣命(跨耳命)。烏賊津使主。雷(いかづち)の神を山祇族は崇敬した。タケミカヅチも同じ。鳴神、霹靂(へきれき)も同じ。
スサノヲ神の乱暴行為に関して、天児屋根命・布刀玉(ふとだま)命(忌部の祖神)を召し、天香具山の朱桜(波々迦ははか)の木で牡鹿の肩の骨を灼いて占いをした。卜骨では鹿が多く使用され鹿占(しかうら)とよばれた。亀占は後世に伝来し、大宝令で卜部が置かれ、そのなかに中臣一族で伊豆出身の卜部平麻呂がおり(のちに吉田氏となる)がいた。
中臣氏族の本宗家。中臣連姓を負う以前はト部(占部)姓を負った。
応神・仁徳朝。允恭期の舎人・中臣イカツオミ。異系(天孫族・宇佐国造・息長氏族)の応神による皇位簒奪。欽明期、中臣連鎌子。物部尾輿とともに排仏派。敏達・用明朝に崇仏・排仏論争がらみで、物部本宗家とともに衰滅した中臣勝海連の家が中臣氏族の本宗家とみられる。
大化前代にはこれに替わって常盤(勝海と近い同族)の流れが本宗家となり、なかでも大化改新時の功績により藤原姓を賜った鎌足の家が本宗家となった。鎌足の祖系の通婚先は久米氏系の山部連や物部連支族などで、鎌足の父まで二流豪族に位置づけられる。鎌足の最初の妻は上毛野君一族の車持君の娘で中下流の豪族に過ぎない。
藤原の姓は、鎌足の生地大和国高市郡藤原郷(橿原市)に因む。藤原京に近い地。中臣氏祖神を山頂に祀る天香具山の西。曽祖父の常磐以降の本拠地。
中臣家。近江朝廷の右大臣・中臣金連は三門・糠手子の子で、鎌足没後の族長的存在。左大臣の蘇我赤兄に次ぐ高位であったが、近江朝の敗戦時に斬首され、三門系は衰退した。
嫡流は二門系となる。意美麻呂は鎌足の女婿。子の清麻呂は右大臣となり、大中臣姓を許される。清麻呂六男の今麿の流れが嫡流となる。子孫は神祇伯・大副をつとめる。神祇伯輔親の娘に彰子(道長の娘)に仕えた歌人の伊勢大輔がいる。
輔親の5世孫の親隆(鎌倉初期)以降は、その後裔のみが祭主を独占し、大中臣家の宗家となり、のちに伊勢祭主家で堂上公家の藤波氏となる。
御食子連後裔の一門も、鎌足の弟、垂目の流れから春日神主家及び伊勢大宮司家河辺氏を出した。
氏神は大和国添上郡の春日大社(祠官は大中臣朝臣、中臣殖栗連)、河内国河内郡の枚岡神社(祠官は平岡連)を中心として、一族の神社祠官家として、恩地神主(河内国高安郡恩地神社)、卜部宿祢(京の平野、吉田、梅宮社)、中臣鹿島連(常陸国鹿島神社)、神奴連(摂津国住吉郡中臣須牟地神社、武庫郡西宮神社)、中臣宮処連(摂津国八部郡長田神社)、大中臣朝臣(伊勢神主、遠江国浜名郡英多神社)等を輩出している。
大鹿島命(垂仁期)・巨狭山命(景行期)の後裔。中臣鹿島連(鹿島大宮司)。
和泉。大鳥連。和太連。和田氏。
下総の香取神は少彦名神で天孫族。忌部首・鴨県主や伊豆国造・知々夫国造・香取連・服部連・弓削連・矢作連の祖で、中臣氏本宗家や常陸卜部には伊豆国造の血も女系を通じ入っている
度会神主は丹波国造・海部直の支族。荒木田神主家は少彦名神系統・服部連の同族。